諸法無我

旅行記や、日々思うことについて

鮒と鯉は美味い

2月のはじめごろ、前々から食べたかった鮒寿司を食べに滋賀まで足を運んでました。

 

ちなみに鮒寿司は伝統的な発行食品:なれずしの一種で人によっては納豆のように受け付けずダメ、絶対状態に陥る人もチラホラいるとか。

個人的にそういう発酵系は嫌いな部類ではないし、今まであかんと思ったのも臭豆腐レベルでもない限りは大丈夫だろうということであまり深く考えず突撃してまいりました。

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2月の滋賀県はとてつもなく寒い、

盆地ということもあってか風が強くその厳しい気候はかつて住んでいた東広島を思い出させます。

 

JR石山駅から風吹きさすぶなかを徒歩で約15分、今回訪れたのは琵琶湖畔にほど近い

"ちか定"というお店でした。

ウナギがメインのようですが鮒やらすっぽんやら各種淡水系も取り揃えています。

今回のメインターゲットの鮒ずしに加え、鯉定食を注文しました。

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まずは鮒寿司から。

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ツブツブしてるのは鮒の卵。

卵も一緒に米と漬け込み、寝かして作ります。

米は乳酸菌発行でドロドロに溶け込んでいるのでコメの残骸らしきものと一緒に食べます。

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なんとなくチーズっぽい香りを感じながら、口へと運ぶ。。。

ほ~ん、なるほど~。

発酵由来のさわやかな酸味を感じさせつつも、噛みしめるに強いうまみを感じる。

口に入れた当初は確かに発酵食品特有のえぐみ?みたいなのも感じられるけど一度口に入れてしまえば問題ナシ。

酒のあてにはもってこいの味でしょう。

発酵過程で生成した酢酸?で骨も気にならずに食べれる。

いわゆる江戸前寿司のシャリが酢を用いることになったのも、なれずしの酸味を再現するためだったという。

今まさに口にしたのは寿司のオリジン、ということなんですね~。

 

続いて鯉定食に。

こちらが鯉こく。

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内臓ごとその身を甘辛-く煮付けた一品。

その名の示す通り、鯉という魚が持つ"コク"を存分に感じられます。

丁寧に料理すればこんなにもおいしい魚だったのか、と驚きです。

ちなみにこいつに山椒を振りかけると鰻にも負けないほど相性抜群で、幸せなことになります。

 

鯉の洗いも初体験。

酢味噌で食べるという室町時代継承スタイル(と勝手に思っている)。

やはり生で食べると顕著に感じられるのが、鯉という魚が持つうまみ・コクの強さ。

下手に臭み取りの薬味を添えたりせず、一般的に泥臭さから生食の敬遠される淡水魚の本来の実力を引き出すスキルは、その下処理に依るところが一番大きいんでしょう。

おそらく、素人が真似ても生で食える鯉をこのレベルで提供できるとは思えない。

恐ろしや鯉の本気。。。

 

そして今回の一番がこちら

シンプルなが鯉のうま味を染み渡らせた白味噌ベースの味噌汁。

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もうこれがね。。。

日本の味噌汁界の中でもトップ争いできちゃうんじゃないか?ってくらいの非常に濃い・鯉~い味なのですよ。言ってしまえば白みそで溶いた鯉のあら汁なんだけど、だいたいあら汁の中の魚の身がスカスカになりやすいものなのに対し、こちらの鯉はまだまだ味が残ってて、骨の髄までしゃぶりつきたくなるレベル。身の質もゼラチン質が強めで身離れ良いのも地味に〇。

そいで鯉の味と白味噌との相性の良さたるよ。若干甘目の仕上がりなので粕汁を飲んでいるかのような上品な口当たりながらも鯉特有の自己主張の強いうま味が喉を刺激しにかかる。ほかの魚にはこのタイプの汁物は作れない。

この日の逸品は、確実にこれでした。

 

 

ちなみに琵琶湖周りは八珍と呼ばれる地域色の強い食材がほかにもあるそう。

暖かくなるころ、これは再び赴かなければいけませんね。

「琵琶湖八珍フェア2018」を開催しています! | お知らせ | 琵琶湖八珍-滋賀のおいしいコレクション

 

fluflu

インフルエンザ

先の月曜日にインフルB型陽性反応が出て、

今週の仕事はそれっきり、火曜日以降家でずっと寝たきりでした。

 

インフル罹るのは高校生以来で久しぶりだったんですが、

運動力&体力全盛期のころに比べると、明らかに体感のしんどさが当時のそれと

全く同じものとは思えないほどに衰えているのを感じてしまいます。

 

当時は布団に寝ころびながらも本を読んだり単語帳見たり…みたいなことも

できたはずがそんなことをしたいと思う余地さえ与えてくれないほど、とにかく体がだるい。常に寝て過ごしたい、という思いが勝るのでこの期に及んで考えた内職はロクにできず。。。

とりあえず熱は下がりましたが咳はじめ喉周辺の症状がまだ生き残っていて、あとはこいつらをどう鎮静化してやろうか、というところ。聞くところによればハチミツは喉の痛みに効くらしいしプーさんみたいにハチミツなめまくっておけばいいんだろうか。

幸い手元にはタジキスタン産の謎ハチミツがあるので、しばらくはこいつをチュッチュしておくことにしときます。

 

熱病のさなか

かねてからダラダラとページをめくり続けてきたものを、このインフルのさなかに

やっと読了しました。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 タイトルに"社会学"とは付いてるけどそんな仰々しいものではまったくなく、

エッセイとかそういう類を読んできる感じに近い。

タイトルの通り、いわゆるマイノリティな人びとの生活の断片の「語り」について、ただ淡々と示している、そんな内容です。

これを読んで、何かしらの問題に対する明確な答えとかそういうものは見つかりません。ただ人々の生活の断片を語りを通してほんの、ほんの少しのぞき込むことができた、それだけです。

何かを理解したり解きほぐすカギになったりはしないけど、読んだ後になんだか清々しい気分にさせてくれる、そんな不思議な本です。

 

 

 

我々のうちに潜む思想ー自己責任という言葉について感じていること②

前回は以下をご参照ください。

karinto-monster.hatenablog.com

②「自己責任論」の語られる社会がどのような病理を抱えることになるのか

前回から少し間が開いてしまいましたが、パート2を書いていこうと思います。

前回に引き続き日本人に浸透する「自己責任」意識に対して今回も自分の思うところを書いていこうと思います。

パート1ではISISによる日本人誘拐・殺人事件に寄せて、いわゆる「自己責任論」の勃興は共同体の構成員のなかでの弱者に対する共感が欠如した状態が引き起こす作用であり、あの事件に対しては自己責任のなかで語られる範疇を超えているのではと述べました。

それが私の感じた違和感であり、国家による国民の保護義務を前提とした考え方が広く根付いていればあの事件に関して自己責任論争も起こらなかった、のかもしれません。

 

ではあの時日本国民の間で湧いた「自己責任論」を引き起こしたものは何だったのでしょうか。

実は前回にすでにほとんど答えと言ってもいいワードを示していました。

―私の感じた違和感とは、「自己責任」論の裏にある弱者に対する共感性の欠如。

この言葉に尽きると、私は思います。

 

強烈な自己責任意識の源とは

非常時でない時にこそ日本人の深層心理に眠る強烈な「自己責任」意識の根源と向かい合い、考察することが非常に重要だと思います。

今回のポイントは

「自己責任論」の語られる社会がどのような病理を抱えることになるのか

としています。

 

弱者に対する共感性の欠けた社会が抱える問題とは何でしょうか。

前回記事でも触れたように、恥ずべき行いを犯した共同体の構成員に対する制裁システムー曖昧な自己責任の名のもとに村八分が維持され続けることでしょうか。

いや、思想の具現化の社会構造でなく、それよりももっと根源的な部分にこそ、我々の思想の中にこそ病は深く根を張っているのではないか?

 

そう思わせる事件が、2016年の夏に起きていました。

相模原の障害者施設で起きた元施設職員による大量殺人事件、まさに我々に思想に潜む病が犯したものだと考えています。

相模原障害者施設殺傷事件 - Wikipedia

 

この事件も当時は相当センセーショナルに報道されたこともあり、覚えのある方がほとんどかと思います。

事件発生後まもなくは笑みを浮かべながら護送される実行犯の姿や犯行前に政府関係者に直に宛てた手紙の内容に触れられたりと、その人物像に対する異常性が強調されていました。

www.huffingtonpost.jp

特にこの中で注視したいのが、

―日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。

といった文面に見られるように、実行犯がまるで正義を行使するかのような意志をもって犯行を起こしたことが伺えることです。

正義は常に何かしらのイデオロギーに則り行使されます。

(ISISが起こした数々の事件=聖戦もある意味信仰・政治的自由を獲得するための「正義」に則っていたはずです。本音と建前の問題はあると思いますが。)

 

「正義」の行使者にとって、その思想が特定の支持層に利益をもたらすという確信がなければその実践の前提条件を満たしません。

それでは相模原事件の実行犯の思想の支持者となったのはいったい誰なのでしょうか。

それこそほかでもない、我々のうちに眠る「優性思想」そのものです。

そして「自己責任論」も同様にここを源に発する病の一つの症状なのではと、私は思っています。

 

無意識のうちに潜む「優性思想」

生物学に起源を発し生命に優劣の価値を付与するという考え方は、これまでも歴史の中で人種政策や今もなお世界中で起きている紛争というかたちで顕現しています。

私たちも例外ではありません。思想の奥深くに「優性思想」が脈々と受け継がれ、そして先に触れた相模原の事件もそれによって引き起こされたものなのでは考えています。

無意識に「優性思想」が潜んでいると書きました。

確かに日本国内の日々の生活の中で私たちが極端に、露骨にある特定の人々に対してヘイト感情のもとに行動を起こすという場面はほとんどないのではないかと思います。

しかしそれは本来目を向けて考えなければならない問題に対して蓋をして背を向けているだけであり、無関心の形をとったその行動こそが内なる「優性思想」の現れではないでしょうか。

 

無関心の対象となりやすいのはいわゆる社会的弱者ー貧困にあえぐ人々や障害を持った人々、LGBT性的少数者)といったように公の場で"タブー"として扱われやすい特徴を持った人々が対象になりやすい状態にあります。

特にここ最近の世の中はそういった社会的弱者にもあらゆる活動の幅を開いていけるようあらゆる取り組みを促進しており、私もそれに関しては当然社会参加の門戸はより広く開かれるべきであると思うし、それ単体では当事者ときちんと向き合うための素晴らしい機会だと思っています。

 

しかしそこにどんな前提を持っているかについては、決して誤ってはいけないポイントがあります。それは、社会参加を行う機会を設けることで弱者に「価値を持たせる」という意識を据えていないか、ということです。

言い換えてしまえば価値を持たない人々に価値を与えるという前提に立って社会参加の門戸を広げるのであれば、それは問題の根本を見誤っているのではないか、ということです。

 

言うまでもなく社会的弱者の特性にも先天的なものもあれば後天的なものもあります。そしてそれは当人の制御下に置けない周囲の環境に起因するものも数多くあります。それによっては社会の中で十分に活躍することも困難な状況にある人々も少なからず存在します。

 

そこで社会に対して価値があることが社会における存在の前提条件という認識を社会の大多数が共有していれば、そこから漏れ出してしまう人々には価値がないとでもいうのでしょうか。社会の要請を叶える能力を満たさない、あるいは負担とみなされるだけで存在そのものを否定することは優性思想に基づく形を変えた殺人行為そのものではないでしょうか。

常に私たちはその一番大事な前提を間違えることだけは決してしてはいけない、と思うのです。

 

これはよく語られることですが無関心が差別を引き起こすとは全くその通りだと思っています。人々が日常の中で問題について語る機会を持たずにいるから、一向に当事者たちへの接し方を学ぶことができないでいる。きっと、今までずっとそんな状態が繰り返されているのです。

相模原の事件も、語る機会をずっと回避してきた私たちの怠慢が起こした事件であったと思っています。当事者の思いを共感することを避け続けてきて、そこに実行犯が現れた。

そういった意味ではいつの日か何らかの形で起こることが予見されていた、そしてその回避に失敗したのです。

事件直後のネット上の反応も賛否両論であれば、実行犯の思想に対して決定的なカウンターを持たず残念ながらある一種の共感を持って受け入れられた部分もあることが、この事件の最大の恐ろしさだと思っています。

 

最後に

相模原殺傷事件にしてもISISの事件にしても、それに対する人々の反応は共通する部分がかなり多かったのではと思っています。

弱い立場にある人々に対してその現状に共感を持たないこと(関わりを持とうとしない、とも言い換えられる)が自己の責任を超えて苦境に立たされる人々を切り捨てる方向に我々の意識が誘導されやすいこと。

社会に負担を強いると判断されれば「価値がない」人間とされ社会的に特定の人物を抹殺する、そんな考え方も少なからず私たちの思想の奥底に眠っていること。

そして私たち思想の奥底の優性思想の芽を今もなお摘み取れずにいること。

 

「自己責任」という言葉を用いるにあたって、本当は「自己責任」で語られるべきでない事項にまで触れてしまうような事態がここ最近は散見されます。

本当にそれは当人の責任によって引き起こされた事態なのか、そもそも責任という切り分けの難しい事項で個人を責めることが果たして有効なのか、この言葉について思うことはこれまで書いてきた以上にもたくさんあります。

だからこそ安易に使うべきではない、という思いが個人的にはあります。

 

そして最後に触れた優性思想の件、意図せず殺人者と信条を共有する危険性がある恐ろしいものです。しかし私たちの社会がそれに打ち克つためには残念ながらまだまだ長い時間がかかりそうです。

すなわち形は変われど同じ文脈で語られる事件は今後も起こりうるはずです。

相模原やISISの二の舞を踏まず、思想的カウンターを平時より会話の機会を設け共有認識として作り上げておくことが大事だと私は思います。

 

 

我々のうちに潜む思想ー自己責任という言葉について感じていること①

あけめしておめでとうございます。

2018年の幕が上がりました。

今年も、だらだらと、日々のよしなしごとについて徒然なるままに

投稿していきたいと思います。

 

今年の年末年始は台湾にいたのですが、戌年になって早々、元日に路地で犬に噛まれるというトラブルに見舞われました。滞在先のオーナーさんには縁起がいいねと言われましたが、全然笑えないやつです。

飼い犬だったので致命的なダメージにはならないかと思われるのですが、

念のため帰国早々破傷風狂犬病のワクチン接種を数回に分けて現在も行っています。

ワクチンの副反応とどれだけ因果関係があるかわかりませんが、いろいろと不安になるような体調の変動もあって、ちょっと精神的に苦しいのが正直なところです。

とにもかくにも今回の件は自分の海外旅行における危機管理に対する認識を変える大きな出来事になりました。

この辺は海外渡航に際して皆様にも知っていただきたい話がたくさんありますので、また別の機会に書きたいなと思ってます。

 

さて、話は変わりますが

前回の投稿でチラッと予告させていただいたように、

今回は昨今の日本社会でもよく取り上げられる「自己責任」という言葉について

私の思うところを書いていきたいと思います。

 

そもそもなぜ「自己責任」というワードを取り上げようと思ったのか。

実はこの言葉、2004年のユーキャン流行語大賞にもノミネートされています。我々世代(20代半ば~前半)では記憶に残っていない方が多いかと思われます(私も覚えてない)。

調べてみると、どうやら同年に多発したイラク戦争に伴う日本人の誘拐事件のなかで、被害者に対する「自己責任」バッシングの嵐が吹き荒れていたから、らしいです。

イラク日本人人質事件 - Wikipedia

当時は小学5年生?だったか。ぼんやりとイラク戦争の報道は連日テレビで流されていたのをぼんやりと記憶している。しかしこの辺の論争はさすがに小学生の身分には理解が追い付いていなかったようで、改めて当時の報道や世論の動きについて調べてみると近年起きている様々な事件の中でも同じようなことが繰り返し論じられているのだなあ、と思ったのが正直なところです。

 

そんな古くから続く自己責任論争を再燃させた、最も皆さんの記憶の中にも新しい事件はおそらく2015年1月のISISによる後藤健司氏及び湯川遥菜氏の誘拐・殺害事件かと思います。

ISILによる日本人拘束事件 - Wikipedia

この事件は、当時の自分にとって「自己責任」論争について考えさせられるきっかけになった出来事であり、また同時に当時の国内世論の混乱…と言うよりかある意味現実を直視できないが故に各SNS上等で見受けられた"錯乱"をリアルタイムで目にして、非常にショックを受けた事件でもあります。

 

今回はこの件に寄せて自己責任という言葉について自分の感じたこととを書いていきたいと思います。

本事件に関しては2年前の事件にもなりますので各界の著名人が当時の現象について検証や考察を行っており、ここでは調べて分かることはあえて詳細については省きます。ここで述べたいのは、当時の世論様相に対して自分が実直に感じた違和感と、この事件に根差すある問題は、この件に括られず、社会一般の広い観点でも語られるのではないか、ということです。

整理すると、今回「自己責任論」に寄せて書くポイントは以下に示すものになります。

①当時の国内世論の様相に対し、自分が何を"違和感"として感じたか

②「自己責任論」の語られる社会がどのような病理を抱えることになるのか

皆さんもちょっとお付き合いいただき、肯定的であれ否定的であれ私の発言から何か感じていただけるものがあれば嬉しいです。

 

①当時の国内世論の様相に対し、自分が何を"違和感"として感じたか

事件発生当時('15年1月)、当時大学生だった私は当時SNSや動画サイト等を介した今までにない勢力拡大を見せていたISISは国内メディアにおいてもそこそこ大きく取り上げられていたように記憶しています。

そして湯川氏に続き後藤氏が拘束され、2名の殺害予告・身代金や戦闘員の釈放が要求がインターネット上の動画で拡散された際の衝撃は、まさか日本人が、ともとれるような衝撃を日本全体が身をもって感じていたのではと思う。ある意味、ISISのテロリズム広報戦略的成功をもってこの一連の騒動は始まっていました。

Twitter上でニュースに対する人々の反応を見てみると、「怖い」「恐ろしい」「自業自得」「危険と分かって行ったのが悪い」といったように様々なものが見受けられたのが第一印象だった。中にはやはり「自己責任」という言葉もあり、この時点で自分の中では言葉にはならないが、モヤモヤとしていたものが生まれていたことは記憶しています。

個人的には「自己責任」という言葉で人の命を匿名の安全圏から切り捨てるような発言をする人がこれ以上増えてくれるなよ、とは感じていた。

 

人質解放に受けて明るい兆しも見られず国内世論が割れる中、1月29日にタレントのデヴィ夫人がブログを更新し、その中で人質事件に触れたことが話題になりました。

ameblo.jp

当時の私もこのニュースを目にし、言葉にならないショックを受けた。

最もショックだったのが、この記事を皮切りに「私もそう思っていた」「夫人の言う通り」といったように、「自己責任」を肯定する人々の意見が、今まで抑えてきたものをまるでパンドラの箱を開けたかのように噴き出してきたような印象を受けたことです。

潜在的に自己責任論が日本中に広まっていることは何となくはわかっていた。この事件をめぐり人々の意見があらゆる方向に割れていたことも当初から知っていた。

しかし、自分は"知ったつもりになっていた"だけだったのをこの時強く感じた。

この記事が世に放たれたことで、国内の意見の分断が一層浮彫りさせられたように、当時の私は感じてしまったのです。

自分の個人的に望まない意見-自己責任論に根差した意見を持つ人は世の中にこれほどかと思うくらいに存在している、そう思うと、ひどく狼狽えてしまった。

どうして危機的状況にある人に対して、それも日本人に対して「自決せよ」だのという言葉を吐けるのか。怒りとも悲しみともわかない感情が沸き起こり、ろくな結論も出ないまま考え込んだのを覚えています。

 

私が自己責任論について違和感を覚えるのは、民主主義を理念とする国家はそもそもこの言論に振り回されずその義務を全うするべきであると考えるからです。

民主主義はその大前提として、弱者を保護する理念を備え、かつその救済措置も取り入れた理想的な社会を構築していく必要がある。憲法もそれに連なる諸法律・諸制度も弱者の存在を認めているからこそ整備されている。弱者にも様々な特性があり、先天的なものから後天的なものまで、その救済の範囲には例外があってはならない。

拘束された2名にどのような事情があったにせよ、いくら「自己責任」の上で行動を行った末に拘束されたとしても、国家は一方的に国民に対して保護の義務を負う。

なぜなら「責任」は切り分けの難しいものであり、自己によるものだけでなく時には自己の制御下に置くことのできない環境の変化により危機的状況に陥ることも想定されるからです。自己の範囲内・範囲外にかかわらず襲い来る脅威に対しては包括的に国家がカバーを行うべきだと思います。

もはや「自己責任」論の到底及ばない危機的状況にある国民に対しても、国家はその救出に向け全力を注ぐ。それが民主主義国家のあるべき姿では、と思います。

したがって国家による国民の保護義務はその最小構成単位たる私たち自身が決して否定してはならない。というのが、私の考えです。

よって、そもそも「自己責任」論についてこの問題で語ること自体に無理があるのでは、とも思っています。

※実際の当時の日本政府の対応についてはここでは触れません。

 また別の問題かと思いますので。

 

問題の根はやはり被害者に対する個々の国民の態度そのものにあると思います。

弱い立場にある人々の観点が、ごっそり抜け落ちてしまっていると感じます。

「自決せよ」「自己責任」と述べる人々は、もし自らの責任の範囲を超えて危機的状況に陥った時に同胞によって蹴落とされることを許すのでしょうか。

なぜ、弱い立場にある同胞の命を助ける方向に考えが向かないのでしょうか。

一体何が人々に「自己責任」を語らせるのでしょうか。

「自己責任」論の裏には「世間」があり、その「世間」は同一の共同体に対して迷惑をかける人々に対し牙を向けるよう仕向けます。これは、「村八分」を行ういわゆるムラ社会というものと同義です。

つまり自分たちの共同体の構成員によって迷惑をかけさせられた/恥をかかされたという思いが人々をそう動かしていた、ということなのでしょうか。我々の「世間」は弱い立場にある人々はその存在を共同体から切り捨てることをもいとわないのでしょうか。恥の文化とも言いますが、自己責任論のエスカレートの果てにこんなにも血の通わない共同体を構築してきた、これが日本人の求めてきた「世間」なのかと思うと、なんだか非常に悲しく感じます。

私の感じた違和感とは、「自己責任」論の裏にある弱者に対する共感性の欠如。

このことだったのではないかと今は思います。

 

この事件は湯川氏・後藤氏両名のISISによる殺害をもって終結しました。

そして我々日本人の持つ思想の危うさもこの一連の騒動を通して(SNS等の発展による個々人の意見の可視化もあり)露出したのでは、と強く感じています。

 

続きますが、長くなりそうなのでまた次回に。

私の2017年末とぼんやり考えていること

こんばんは。

年の瀬に差し掛かりクリスマスイブときていますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

思えば今年は「咀嚼」の年にすると銘打ち、自分の中に流れ込むあらゆる情報を噛み砕き、吸収していこうと試みた一年でした。

karinto-monster.hatenablog.com

(今年全然更新してない。。。)

咀嚼の名の通り、今年は今までにないくらいジャンルを問わずいろんな本を読みました。

そのすべての刺激を噛み砕けてかはわかりませんが、咀嚼を意識するのとしないとのでは多少読み方も違ったんじゃないかなーっていうぼんやりとした思いはあります。

咀嚼して自分の中に生まれた思いをFacetoFaceでお話しできたりする場があったらなぁ。。。なんて思っています。

やっぱり、自分の口に出して発信することが思考を鍛える一番のトレーニングになりえると思うので。こういうブログだと一方通行の発信になりがちなので。。。

 

ちなみに最近読んだもので印象的だったのが我らがキョンキョン小泉今日子氏の対談集。

小泉放談 (宝島社文庫)

小泉放談 (宝島社文庫)

 

 ほぼ表紙買いだったけど50代の女性が考えていることなんか普段は母親の口以外からはうかがい知れないし、ある意味新鮮で面白い。小泉今日子さんが諸先輩方と「齢50を迎える」ことについて対談する、という内容なのだけれど、世代の離れた人々の考えているあれこれも結局は我々同世代の悩みと本質的に同じなのかもね、って思えるような話もあって20代の人が読んでもなかなか考えさせられるところもあると思う。

 

特に印象的だったのが平松洋子さんとの対談で「やらないことを決めること」という話題が出たこと。これって50代じゃなくても人生の中である選択を行うときにすごく重要で普遍的な考え方だと思った。

 

小倉ヒラクさんも同じようなことを言っていた(30代とは言ってるけど、自分は全年齢に言えるのかなと思います。)。色々と目移りしやすい自分にも刺さることが何となくあってなんだかジーンときました。さすがに地獄に落ちるか??とは思わないけれど重要な選択観であることには同意します。

 

あともう一冊、今日買った本がこれ。

相模原事件とヘイトクライム (岩波ブックレット)

相模原事件とヘイトクライム (岩波ブックレット)

 

 昨年の夏に起きた凄惨な事件の本質を探り、ヘイトクライム問題の根絶について述べる、といった内容。今思えばあの事件の怖さは加害者の「正義」を実行したことに対する世論の思想的なカウンターが完璧に機能してなかったことだったのかなあ、って思う。

健常者たるわれわれの中にも優性思想の芽は潜んでいて、ある意味加害者の思想にも部分的な肯定を社会が認めてしまったことに対して、あの事件が起きた時からなんとなく不気味さは自分は感じていたんだと思う。今になってやっと言語化に至ったんだけど。

この頃よく問われる「自己責任」の問題にも通ずるところがあるんじゃないかなぁ、とぼんやりこれも考えています。

 

「自己責任」の話はまた今度、数年前の1月に起きた別の事件にも寄せて書けたらなあと思います。その事件も個人的には当事者でもないのに異常なまでに精神的にダウナーになるほどの衝撃を受けたものなので、まともな文章として組み立てられるか正直自信がないです。来る1月に向き合って、しっかり自分の思うところを書きたいと思います。頑張ります。

 

もうひとつ、決めたこと

前々から興味があって学習意欲はあったのですが、中国語の勉強をまじめに始めようと思います。もともと中華圏に予行する機会が多かったので会話のスキルを上達させたいという思いがありました。

なかなか継続して物事に取り組むのが苦手なタイプなので前途多難ですが、ネイティブの先生と発音からじっくりじっくり腰を据えて取り組んでいきます。

旅先の料理屋でナチュラルに会話ができるくらいには…と思い、勉強に励みます。

今年の年末も台南に行ってくるので、飯食ってだらだらするのに加えて学習に対するモチベーションも高めに行ってきます。こっちも頑張ります。

 

だらだらふらふらとした文章に今後もお付き合いいただければ幸いです。

最後に、個人的ベスト2017ミュージックでお別れを。

www.youtube.comこれを聞くと2017年を思い出せる、そんな曲に出会った気がします。

奪われているもの

こんばんは

最近はあらゆる刺激や情報の受容に徹し続けてきたところがあって、ぼちぼちと久しぶりに発信したいという気持ちが高ぶってきたので軽く文に起こしてみます。

 

今は某企業の寮に住んでいるのですが、中の設備はといえば、まるでビジネスホテルのような最低限のものがあるだけで、もちろん料理ができるような環境にはありません。食事は寮内の食堂で一応事足りるようなシステムにはなっているのですが、やっぱり調理という生活の一片を奪われているような感覚があって、頭の中はなんだかモヤモヤしておるわけです。

 

もちろん料理ができる環境が欠けているということは、料理に関わる副次的な部分の生活の営みまで制限されているように、感じます。例えば釣りも自分の中では大事な趣味の一つで、釣った魚を料理して食べることは釣り人にとっては代え難い、至福の瞬間ともいえます。

 

ところがキッチンはじめ調理環境が不十分であれば、結局釣った魚の処理にも困ってしまい、釣りに向かうモチベーションもなんだか削ぎ落とされてしまうような、そんな風に感じてしまいます。

 

じゃあ寮での暮らしがそんなに悪いことなのかといえばそうではありません。食堂があるということは裏を返せば食事を提供してくれる環境が整っていて、自前で日々の食事をアレンジする必要がないということです。その分一般的な生活よりも時間が浮く、とも考えられます。

 

自分にとっての事例に限らず、生活のあれこれに便利が浸透しているのは、確かに良いことなのかもしれません。テクノロジーの進歩や技術の向上、劇的な環境変化がもたらすのは、日々の生活の営みの高速化、或いは時短という形で私たちの生活をますます“便利”にしてくれる。

 

でも便利さの中に自分にとって何か大切な営みが奪われていく感覚を覚えるのは、日進月歩していく私たちの生活の中でこれからもっと増えていくのかもしれません。

便利さと引き換えに何かを手放すことで、何か大切なものを奪われているような、そんな気がします。

 

それとも既に大きなものを、便利さを享受するために奪われてしまったのかもしれません。

だとすれば安易に便利な生活の恩恵にあずかることが、時に自分にとって非常にマイナスな面を持っていることがあるのかもと、少しだけ引いた目で物事を考えられるようになれれば、それは最終的に自分の感性を守ることにつながる、そう思いませんか?

 

ふと生活を見つめ直し、自分にとって何が大切なのか、奪われたくないものは何なのか、少しだけ思索にふけてみた、そんな話です。

ふと考えた「発信する願望」について

おひさしぶりでございます。

 

ご無沙汰です。

 

もうしばらく書いていませんでした。忘れてました。スミマセン。

最後の交信がいつだったかを振り替えてみれば、もう約2か月前にもさかのぼります。

こんなにも更新していないブログなのに、アクセス解析を見てみるとアクセスがない日のほうが少ないくらいなんですよね。不思議なもんです。

それだけ見てくださっている方がいるというのはありがたいことです。

中身もクソもない頭の中垂れ流しの文章ですが、どうかこれからもお付き合いください。

 

 

さて、今日は何を取り上げようかなとふと考えてみたのですが、そもそもこんなにも更新が滞っていた理由を考えてみることにしますよ。

・仕事で疲れて帰っても気力が起きない。ねむい。

・かと言って土日はほとんど出払っているので文章を書く気にならない。

・昼間にいいネタを思いついても夜には忘れてる。

・そもそも何かを発信したいという願望に至っていない。

 

ざっと思いついてこんなところです。

個人的には4つ目が結構いいポイントを突いてるんじゃないかなと思います。

 

 

発信する願望がない??

何か自分の頭の中で回り続けている思いを発信する手段としてブログを始めた気がするのですが、最近は強く何かを伝えたいという思いが弱くなってきたように感じます。

明確な理由はわかりませんが、一つだけあえて書くとするならば、1年間働きの場に出たことは少なからず影響しているんじゃないかなと思います。

 

新しい知識を得ては頭の中でこねくり回し、新しいものとして世に広めたいという思いが、少なからず以前の自分には合ったと思います。というのもそのころは大して働いてもいない、大人の社会を知らずに済んでいた身分だったから。

言い方を変えてしまえば、世間知らずだったがゆえに自分の思うところが何か世の中を変える力がると思い込んでいた、ということなのかもしれません。

 

しかし今や労働する立場にある自分は、狭い世間ながら、ある程度は大人の社会に足を踏み入れています。大人の社会にはそれこそこれまで自分が目にしていた世間とは違って、関係する人物や事柄がこれまで以上に増え、そしていかに自分が矮小な存在であるかを少しは自覚できるようになったのではと思います。

そのような中で認知する世間が大きくなればなるほど、相対的に自身の存在は小さくなり、

「何か言っても世の中なんて変わりやしない」なんて思いに少しずつとらわれてしまっているのかもしれません。1年間という短い期間のなかで、自分はこうも社会に塗り替えられてしまったのかと思うと、自分は思っていたよりも周りのものごとに影響を受けやすい性分だったりするのかもしれません。

 

 

でもそれってダサくない??

あーでもすごく嫌ですね、こういう世の中に負けて自分の思いを曲げました、みたいなの。

ブログのタイトルにもなってる諸法無我という言葉、この世のすべての事物・一切衆生は絶え間なく変化し、その個有の「我」を持たない、という意味です。好きな言葉です。

確かにその通り、自分にも純然たる我は存在しないと思っているし、世間の様々なものに影響を受けて日々変化しながら生きている、いびつな生き物です。

諸法無我の示すように、世間の物事から多くの影響を受けることは間違いない。しかしそのすべてを悪いものと捉えてはいけないのかもしれない。外部の様々な刺激を柔軟に吸収してそれを別の方向に受け流していければ…何かを伝えることが些細なことでも誰かに伝わり、その人の心を動かすきっかけになるのかもしれない。

それこそまさにすべてのものが関わり合っているさま―諸法無我そのものだ。

 

もう少し自分が発信していくことを肯定してもいいし、それに自信を付け加えてあげられればいいのかもしれないなあ。やがてそれは、発信したいという願望につながっていくんだろう。