ふと考えた「発信する願望」について
おひさしぶりでございます。
ご無沙汰です。
もうしばらく書いていませんでした。忘れてました。スミマセン。
最後の交信がいつだったかを振り替えてみれば、もう約2か月前にもさかのぼります。
こんなにも更新していないブログなのに、アクセス解析を見てみるとアクセスがない日のほうが少ないくらいなんですよね。不思議なもんです。
それだけ見てくださっている方がいるというのはありがたいことです。
中身もクソもない頭の中垂れ流しの文章ですが、どうかこれからもお付き合いください。
さて、今日は何を取り上げようかなとふと考えてみたのですが、そもそもこんなにも更新が滞っていた理由を考えてみることにしますよ。
・仕事で疲れて帰っても気力が起きない。ねむい。
・かと言って土日はほとんど出払っているので文章を書く気にならない。
・昼間にいいネタを思いついても夜には忘れてる。
・そもそも何かを発信したいという願望に至っていない。
ざっと思いついてこんなところです。
個人的には4つ目が結構いいポイントを突いてるんじゃないかなと思います。
発信する願望がない??
何か自分の頭の中で回り続けている思いを発信する手段としてブログを始めた気がするのですが、最近は強く何かを伝えたいという思いが弱くなってきたように感じます。
明確な理由はわかりませんが、一つだけあえて書くとするならば、1年間働きの場に出たことは少なからず影響しているんじゃないかなと思います。
新しい知識を得ては頭の中でこねくり回し、新しいものとして世に広めたいという思いが、少なからず以前の自分には合ったと思います。というのもそのころは大して働いてもいない、大人の社会を知らずに済んでいた身分だったから。
言い方を変えてしまえば、世間知らずだったがゆえに自分の思うところが何か世の中を変える力がると思い込んでいた、ということなのかもしれません。
しかし今や労働する立場にある自分は、狭い世間ながら、ある程度は大人の社会に足を踏み入れています。大人の社会にはそれこそこれまで自分が目にしていた世間とは違って、関係する人物や事柄がこれまで以上に増え、そしていかに自分が矮小な存在であるかを少しは自覚できるようになったのではと思います。
そのような中で認知する世間が大きくなればなるほど、相対的に自身の存在は小さくなり、
「何か言っても世の中なんて変わりやしない」なんて思いに少しずつとらわれてしまっているのかもしれません。1年間という短い期間のなかで、自分はこうも社会に塗り替えられてしまったのかと思うと、自分は思っていたよりも周りのものごとに影響を受けやすい性分だったりするのかもしれません。
でもそれってダサくない??
あーでもすごく嫌ですね、こういう世の中に負けて自分の思いを曲げました、みたいなの。
ブログのタイトルにもなってる諸法無我という言葉、この世のすべての事物・一切衆生は絶え間なく変化し、その個有の「我」を持たない、という意味です。好きな言葉です。
確かにその通り、自分にも純然たる我は存在しないと思っているし、世間の様々なものに影響を受けて日々変化しながら生きている、いびつな生き物です。
諸法無我の示すように、世間の物事から多くの影響を受けることは間違いない。しかしそのすべてを悪いものと捉えてはいけないのかもしれない。外部の様々な刺激を柔軟に吸収してそれを別の方向に受け流していければ…何かを伝えることが些細なことでも誰かに伝わり、その人の心を動かすきっかけになるのかもしれない。
それこそまさにすべてのものが関わり合っているさま―諸法無我そのものだ。
もう少し自分が発信していくことを肯定してもいいし、それに自信を付け加えてあげられればいいのかもしれないなあ。やがてそれは、発信したいという願望につながっていくんだろう。