諸法無我

旅行記や、日々思うことについて

奪われているもの

こんばんは

最近はあらゆる刺激や情報の受容に徹し続けてきたところがあって、ぼちぼちと久しぶりに発信したいという気持ちが高ぶってきたので軽く文に起こしてみます。

 

今は某企業の寮に住んでいるのですが、中の設備はといえば、まるでビジネスホテルのような最低限のものがあるだけで、もちろん料理ができるような環境にはありません。食事は寮内の食堂で一応事足りるようなシステムにはなっているのですが、やっぱり調理という生活の一片を奪われているような感覚があって、頭の中はなんだかモヤモヤしておるわけです。

 

もちろん料理ができる環境が欠けているということは、料理に関わる副次的な部分の生活の営みまで制限されているように、感じます。例えば釣りも自分の中では大事な趣味の一つで、釣った魚を料理して食べることは釣り人にとっては代え難い、至福の瞬間ともいえます。

 

ところがキッチンはじめ調理環境が不十分であれば、結局釣った魚の処理にも困ってしまい、釣りに向かうモチベーションもなんだか削ぎ落とされてしまうような、そんな風に感じてしまいます。

 

じゃあ寮での暮らしがそんなに悪いことなのかといえばそうではありません。食堂があるということは裏を返せば食事を提供してくれる環境が整っていて、自前で日々の食事をアレンジする必要がないということです。その分一般的な生活よりも時間が浮く、とも考えられます。

 

自分にとっての事例に限らず、生活のあれこれに便利が浸透しているのは、確かに良いことなのかもしれません。テクノロジーの進歩や技術の向上、劇的な環境変化がもたらすのは、日々の生活の営みの高速化、或いは時短という形で私たちの生活をますます“便利”にしてくれる。

 

でも便利さの中に自分にとって何か大切な営みが奪われていく感覚を覚えるのは、日進月歩していく私たちの生活の中でこれからもっと増えていくのかもしれません。

便利さと引き換えに何かを手放すことで、何か大切なものを奪われているような、そんな気がします。

 

それとも既に大きなものを、便利さを享受するために奪われてしまったのかもしれません。

だとすれば安易に便利な生活の恩恵にあずかることが、時に自分にとって非常にマイナスな面を持っていることがあるのかもと、少しだけ引いた目で物事を考えられるようになれれば、それは最終的に自分の感性を守ることにつながる、そう思いませんか?

 

ふと生活を見つめ直し、自分にとって何が大切なのか、奪われたくないものは何なのか、少しだけ思索にふけてみた、そんな話です。