我々のうちに潜む思想ー自己責任という言葉について感じていること①
あけめしておめでとうございます。
2018年の幕が上がりました。
今年も、だらだらと、日々のよしなしごとについて徒然なるままに
投稿していきたいと思います。
今年の年末年始は台湾にいたのですが、戌年になって早々、元日に路地で犬に噛まれるというトラブルに見舞われました。滞在先のオーナーさんには縁起がいいねと言われましたが、全然笑えないやつです。
飼い犬だったので致命的なダメージにはならないかと思われるのですが、
念のため帰国早々破傷風&狂犬病のワクチン接種を数回に分けて現在も行っています。
ワクチンの副反応とどれだけ因果関係があるかわかりませんが、いろいろと不安になるような体調の変動もあって、ちょっと精神的に苦しいのが正直なところです。
とにもかくにも今回の件は自分の海外旅行における危機管理に対する認識を変える大きな出来事になりました。
この辺は海外渡航に際して皆様にも知っていただきたい話がたくさんありますので、また別の機会に書きたいなと思ってます。
さて、話は変わりますが
前回の投稿でチラッと予告させていただいたように、
今回は昨今の日本社会でもよく取り上げられる「自己責任」という言葉について
私の思うところを書いていきたいと思います。
そもそもなぜ「自己責任」というワードを取り上げようと思ったのか。
実はこの言葉、2004年のユーキャン流行語大賞にもノミネートされています。我々世代(20代半ば~前半)では記憶に残っていない方が多いかと思われます(私も覚えてない)。
調べてみると、どうやら同年に多発したイラク戦争に伴う日本人の誘拐事件のなかで、被害者に対する「自己責任」バッシングの嵐が吹き荒れていたから、らしいです。
当時は小学5年生?だったか。ぼんやりとイラク戦争の報道は連日テレビで流されていたのをぼんやりと記憶している。しかしこの辺の論争はさすがに小学生の身分には理解が追い付いていなかったようで、改めて当時の報道や世論の動きについて調べてみると近年起きている様々な事件の中でも同じようなことが繰り返し論じられているのだなあ、と思ったのが正直なところです。
そんな古くから続く自己責任論争を再燃させた、最も皆さんの記憶の中にも新しい事件はおそらく2015年1月のISISによる後藤健司氏及び湯川遥菜氏の誘拐・殺害事件かと思います。
この事件は、当時の自分にとって「自己責任」論争について考えさせられるきっかけになった出来事であり、また同時に当時の国内世論の混乱…と言うよりかある意味現実を直視できないが故に各SNS上等で見受けられた"錯乱"をリアルタイムで目にして、非常にショックを受けた事件でもあります。
今回はこの件に寄せて自己責任という言葉について自分の感じたこととを書いていきたいと思います。
本事件に関しては2年前の事件にもなりますので各界の著名人が当時の現象について検証や考察を行っており、ここでは調べて分かることはあえて詳細については省きます。ここで述べたいのは、当時の世論様相に対して自分が実直に感じた違和感と、この事件に根差すある問題は、この件に括られず、社会一般の広い観点でも語られるのではないか、ということです。
整理すると、今回「自己責任論」に寄せて書くポイントは以下に示すものになります。
①当時の国内世論の様相に対し、自分が何を"違和感"として感じたか
②「自己責任論」の語られる社会がどのような病理を抱えることになるのか
皆さんもちょっとお付き合いいただき、肯定的であれ否定的であれ私の発言から何か感じていただけるものがあれば嬉しいです。
①当時の国内世論の様相に対し、自分が何を"違和感"として感じたか
事件発生当時('15年1月)、当時大学生だった私は当時SNSや動画サイト等を介した今までにない勢力拡大を見せていたISISは国内メディアにおいてもそこそこ大きく取り上げられていたように記憶しています。
そして湯川氏に続き後藤氏が拘束され、2名の殺害予告・身代金や戦闘員の釈放が要求がインターネット上の動画で拡散された際の衝撃は、まさか日本人が、ともとれるような衝撃を日本全体が身をもって感じていたのではと思う。ある意味、ISISのテロリズム広報戦略的成功をもってこの一連の騒動は始まっていました。
Twitter上でニュースに対する人々の反応を見てみると、「怖い」「恐ろしい」「自業自得」「危険と分かって行ったのが悪い」といったように様々なものが見受けられたのが第一印象だった。中にはやはり「自己責任」という言葉もあり、この時点で自分の中では言葉にはならないが、モヤモヤとしていたものが生まれていたことは記憶しています。
個人的には「自己責任」という言葉で人の命を匿名の安全圏から切り捨てるような発言をする人がこれ以上増えてくれるなよ、とは感じていた。
人質解放に受けて明るい兆しも見られず国内世論が割れる中、1月29日にタレントのデヴィ夫人がブログを更新し、その中で人質事件に触れたことが話題になりました。
当時の私もこのニュースを目にし、言葉にならないショックを受けた。
最もショックだったのが、この記事を皮切りに「私もそう思っていた」「夫人の言う通り」といったように、「自己責任」を肯定する人々の意見が、今まで抑えてきたものをまるでパンドラの箱を開けたかのように噴き出してきたような印象を受けたことです。
潜在的に自己責任論が日本中に広まっていることは何となくはわかっていた。この事件をめぐり人々の意見があらゆる方向に割れていたことも当初から知っていた。
しかし、自分は"知ったつもりになっていた"だけだったのをこの時強く感じた。
この記事が世に放たれたことで、国内の意見の分断が一層浮彫りさせられたように、当時の私は感じてしまったのです。
自分の個人的に望まない意見-自己責任論に根差した意見を持つ人は世の中にこれほどかと思うくらいに存在している、そう思うと、ひどく狼狽えてしまった。
どうして危機的状況にある人に対して、それも日本人に対して「自決せよ」だのという言葉を吐けるのか。怒りとも悲しみともわかない感情が沸き起こり、ろくな結論も出ないまま考え込んだのを覚えています。
私が自己責任論について違和感を覚えるのは、民主主義を理念とする国家はそもそもこの言論に振り回されずその義務を全うするべきであると考えるからです。
民主主義はその大前提として、弱者を保護する理念を備え、かつその救済措置も取り入れた理想的な社会を構築していく必要がある。憲法もそれに連なる諸法律・諸制度も弱者の存在を認めているからこそ整備されている。弱者にも様々な特性があり、先天的なものから後天的なものまで、その救済の範囲には例外があってはならない。
拘束された2名にどのような事情があったにせよ、いくら「自己責任」の上で行動を行った末に拘束されたとしても、国家は一方的に国民に対して保護の義務を負う。
なぜなら「責任」は切り分けの難しいものであり、自己によるものだけでなく時には自己の制御下に置くことのできない環境の変化により危機的状況に陥ることも想定されるからです。自己の範囲内・範囲外にかかわらず襲い来る脅威に対しては包括的に国家がカバーを行うべきだと思います。
もはや「自己責任」論の到底及ばない危機的状況にある国民に対しても、国家はその救出に向け全力を注ぐ。それが民主主義国家のあるべき姿では、と思います。
したがって国家による国民の保護義務はその最小構成単位たる私たち自身が決して否定してはならない。というのが、私の考えです。
よって、そもそも「自己責任」論についてこの問題で語ること自体に無理があるのでは、とも思っています。
※実際の当時の日本政府の対応についてはここでは触れません。
また別の問題かと思いますので。
問題の根はやはり被害者に対する個々の国民の態度そのものにあると思います。
弱い立場にある人々の観点が、ごっそり抜け落ちてしまっていると感じます。
「自決せよ」「自己責任」と述べる人々は、もし自らの責任の範囲を超えて危機的状況に陥った時に同胞によって蹴落とされることを許すのでしょうか。
なぜ、弱い立場にある同胞の命を助ける方向に考えが向かないのでしょうか。
一体何が人々に「自己責任」を語らせるのでしょうか。
「自己責任」論の裏には「世間」があり、その「世間」は同一の共同体に対して迷惑をかける人々に対し牙を向けるよう仕向けます。これは、「村八分」を行ういわゆるムラ社会というものと同義です。
つまり自分たちの共同体の構成員によって迷惑をかけさせられた/恥をかかされたという思いが人々をそう動かしていた、ということなのでしょうか。我々の「世間」は弱い立場にある人々はその存在を共同体から切り捨てることをもいとわないのでしょうか。恥の文化とも言いますが、自己責任論のエスカレートの果てにこんなにも血の通わない共同体を構築してきた、これが日本人の求めてきた「世間」なのかと思うと、なんだか非常に悲しく感じます。
私の感じた違和感とは、「自己責任」論の裏にある弱者に対する共感性の欠如。
このことだったのではないかと今は思います。
この事件は湯川氏・後藤氏両名のISISによる殺害をもって終結しました。
そして我々日本人の持つ思想の危うさもこの一連の騒動を通して(SNS等の発展による個々人の意見の可視化もあり)露出したのでは、と強く感じています。
続きますが、長くなりそうなのでまた次回に。