諸法無我

旅行記や、日々思うことについて

何もしないことだって必要かもしれない

こんにちは。

今日は日曜日、非常にいい天気、穏やかな休日です。

特に予定もないので、本を読むかはてブで記事を読むかなんなりしてダラダラ過ごしています。

とはいえこんな形の休日を過ごすのは、自分にとっては非常に珍しいことなので、我ながらダラダラ過ごせていることに驚きを隠し得ません。

学生の頃は少しでも時間があれば釣りに行ったり、七輪バーベキューをしたり、旅行の計画を立てたり...となんだかんだで時間がいくらあっても足りないような休日を送るのが常でした。

まあ学生の頃なんて毎日が休日みたいなものかもしれませんが笑

今だから言えるのですが、ある意味休日を「意味のあるもの」にしようとして必死だったのかも、とおもうのです。

それで最近気づいたのは、一見「意味のない」時間を過ごすことも案外大事なのかもしれないな、ということです。

理由は二つあります。

ひとつ目に、何かをする、ということは一般化すれば何かしらを対価に何かしらの経験を得ることとでも換言できるものであって、それは真の休息を意味しないからです。

例えば、釣りに行くにしても、金銭的・時間的な消費を伴うことで精神的・物質的な満足感を得る、という表現ができます。

何をするにしても人間はあらゆる形でエネルギー・資源を使います。休む、ということを念頭におけばそれは正反対の行動にあたるのに「リフレッシュ」の名のもとに人々は趣味に走るわけですね。
自覚のないうちに、休日は「リフレッシュ」しなければという観念が働いているのかもしれないです。
かつての自分がそうだったように。

確かに休日に趣味を楽しむことに一定の効用があるのは間違いありません。ただ、律することを忘れ、リフレッシュしなければという強迫観念にとらわれることほど本末転倒なことはないな、ということです。

ふたつ目に、休日は自らを解き放ち、かつ客観視できる機会を与えてくれる側面を持っていると考えるからです。

敢えて特に予定のない日を作り、ふと自分の今の在り方について悩んだり考えたりすることができるのは、ある意味「することがない」状態でこそ捗るのではないかな、と思います。

普段の生活から解き放たれ余裕が生まれた状況にあるからこそ、思いもしなかったアイデアや考え方が浮かんできたりと、余裕のもたらす効用を思いっきり享受できるのは、「何もしない」休日にこそできることなんじゃないかな、と思うわけです。


まさに今、文章こそ綴ってはいますが本を読んだり考え事をすること以外特に「何もせず」に一日を過ごしてみることも、たまにはいいもんだな、と昼下がりの日曜日にふと気づきました。


ただ、考え事にも結構エネルギーは要るものですね笑