諸法無我

旅行記や、日々思うことについて

自由研究の思い出

夏も終わり、初秋の雰囲気の漂う今日この頃です。

ふと考えてみましたが、夏休みのとき、自由研究ってありましたよね?

自由研究と聞けば対象となるテーマは自然科学系統がメインと思っていましたが、最近では

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/1601/12/news161.html

こんな形の自由研究をする小学生もいるんですね~驚き。

何しろ「自由」なテーマでの研究が課される以上その範囲は自然科学的な分野に括られる必要はないわけで、本来的に自由研究とはこうあるべきなのでしょう。

しかしながら自分の興味関心は幼少の頃より自然科学分野に向いていたので(大学こそ文系でしたが) 、常に自由研究をやるとなればそのテーマはいわゆる自然科学系統ののものでした。

おれが確か小学五年生のときに行った自由研究は「東京のデパートに使われている大理石から化石を見つける」、でした。(当時は都民でした)

信じられないかもしれませんが、デパートなんかに使われる大理石の中には、よくよく見てみると結構な頻度で化石が取り残されているのです。アンモナイトはじめ貝類とかウミユリとか、三葉虫とかバリエーション様々な化石が、博物館さながらに大理石の中に埋め込まれているのです。

この化石はどこで見つけました!こんな種類と推測されます!みたいな情報を模造紙にまとめたのが自分の今までやってきた自由研究のなかで、一番印象的。

校長先生に表彰を受けたのもあってか、なんだかいい思い出だな~。

以上、ただの回顧録。

表現をする力が欲しい

【若干殴り書き気味注意】

 もう少しもしないうちに23歳になるが、ここにきて何か自分自身を強く表現をする力が欲しい、と思うことが多くなった。

例えば、楽器の一つでも弾ければもっと面白いことになっていたんじゃないかなとか。

決して充実するだろうとかそういう確信はないけど、自信をもって高らかに声を上げる手段が欲しい。今回はそういうお話だ。

 

そもそも何でこんなことを思うようになったかと言うと、音楽であれ絵画であれ文章であれ、なにか具体的な手段をもって自分自身の秘めるものを表現する手段が乏しいと感じるようになったからだ。

特に言うところの"シャカイジン"になってからは、そう思う機会は格段に増えたような気がする。もうすぐ半年に差し掛かろうとする社会人生活のという矮小な観測範囲から導き出したものだけど、おそらく想像以上に世の中は個性を必要としない

大きな企業や組織で働く人ほど、歯車としての役割を強く求められるゆえか、個性は邪魔なものとして排除されやすいのかもしれない。

 

社会人になるまではあれほどもてはやされてきた「個性」「キャラクター」も、今の生活ではむげなものとして取り扱われるのが世の中なのだなあ、というのがこの数か月間で得た教訓だ。

 

最近では個人の価値観や生き方が多様であれば多様なほどいいとされる風潮もあり、学校教育ではそう学んだ人々も多いことだろう。

しかし現実はどうか?

実社会には個人個人の個性を受け入れるほどの広い懐があるとはまだまだ自分の中では認めがたい。こればっかりはなかなか自分の口でも言いにくいのだが、「すべて正しいい」よりも、「一つの正解がある」ことを強く支持する人がまだまだ多いのだな、と感じるのが正直なところだ。例えるなら「AはA'であるべきだ」、みたいな自己のルールに入りきらない事象や人物の存在を認められない、そんな考え方が蔓延しているような気がする。そんな中じゃ、なんだか埋もれちゃいそうな気がする。

 

教育面では多様な個性化を広めようという一方で、実社会は没個性化を要請している。まさにダブルバインドといった様相じゃないか。

 

確かに考え方を異とする人と関わり合うのはすごく痛いし、ストレスフルだ。人間だれしも異質なものを受容する際は痛いもんだ。

でもそれは裏を返せば刺激的で、自分の中に考えもしなかったインスピレーションが下りてくる可能性を生み出す至上の瞬間じゃないのかなとも個人的には思う。

極論を言えば、もっともっと個人のぶつかり合えるような社会が実現してほしいというのが本音だ。決して生きやすいとは言えないかもしれないが、もうちょっとそういった方向にシフトしてもいいんじゃないかと思う。

 

だからこそ今は思う。埋もれちゃいそうな世の中で声を上げる手段を欲したいって。形は問わない。自分自身の思いを吐き出せる手段があれば、もっといろんなものとぶつかれるチャンスをつかめるような気がする。

自分自身を捨象する力が、手段が欲しいな。

 

 

 

 

(…これは冷静になってからなんじゃこりゃと見返すタイプの文章だな…)

まあたまには衝動的に綴ってみるのも悪くないのかな。

欧州旅行⑥ Paris part2

欧州旅行記もようやく半分くらいでしょうか、

パリ編パート2でございます。

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オルセーを訪れた後はパリのを流れる大河、セーヌ川の川岸を歩きながらエッフェル塔方面を目指す。

ちなみにパリではセーヌ川の南側を「左岸」といい、対する北側を「右岸」という。

総じて左岸の方が治安は良さげなイメージだ。

パリはとにかく地区によって治安の差が顕著なので、旅行に行く際は本当に気を付けたほうがいいと思う。特にパリの中でも18区をはじめとした北部は本当にパリなのか?と思わせられるような印象もある。あくまでイメージの話であり、決めつけてしまうことがいいことではないのだが、旅行中は用心に越したことはない。

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やはりパリでもとりわけ有名な観光地だけあってか人が多い。アジア人の姿も良く見受けられる。

しかしそれよりも目立つのがアフリカ系と思しき黒人たちの物売りの姿だ。自撮り棒やら怪しげなパリグッズを観光客に売りつけている。それも非常に数が多い。

彼らのバックグラウンドはアフリカの旧フランスの植民地からの移民か、それとも北アフリカの紛争地帯から命からがら言葉の通じるフランスに逃げてきて、こういった職に就いているのか…

地下鉄のホームの難民やスリが多く見られる事からも、我々日本人が思う以上にフランスという国は昨今のテロの頻発が象徴しているように混沌の最中にあるのかもしれない。そんなことを考えてばっかでエッフェル塔自体に対して、これといった印象がないのが正直な印象だ。

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夕食はスーパーで買った謎のよくわからんやつ。

ムール貝とサモサは良いとして、謎サラダはキヌアがメインなのだろうか。

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翌朝はやはりここは外せないということでルーヴル美術館を訪れた。

とにかくコレクションの量が膨大で、とても一日ではすべてを見切らない。特定の分野に絞って鑑賞しなければ、見たいものも見れずじまい、ということになりかねない。

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オルセーよりも古い時代の作品が多めなので、宗教画が必然的に多くなってくる。

 

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ナポレオンがイタリアからぶん捕ってきた絵らしい。

他にもルーヴル所蔵のオリエントコレクションやエジプトコレクションは非常に充実していて、ある意味近代帝国主義の遺産だ。

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モナリザの前は、ものすごい人だかりだ。

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勝利の女神であるサモトラケのニケ。実はあのNIKEマークと起源を共にする。

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やはりエジプトコレクションは至極の充実っぷりである。

遊戯王世代的にはエジプト感あふれるコーナーにはロマンを感じずにはいられない。

当時の人々の習俗や死生観を、遺されたものから知ることが出来る。

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猫のミイラまであるので驚きだ。

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ルーヴル、内部装飾も細かいところまで施されていて、つくづくフランスと言う国は美意識が高いのだなと感じさせられる。パリの街中は犬のウンコであふれてるけどな!

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この帳簿つけてる絵好きです。

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3年D組近代合理主義先生!!!

として知られるデカルトさんともお会いしました。cogit ergo sum~

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オランダ勢もいます。

フェルメールの「天文学者」なんか来日したときは大騒ぎだったけどこちらでは案外皆様素通り。あー、そういうものなのね…

 

特別展は星と神話をテーマにしたもの。

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特別ゲストはなんとヴェーダ―卿。

なぜかEP3のメイキングがずっと流れてた。ヘイデン・クリステンセンが若くて泣いた。

 

ルーヴルはざっとこんな感じでした。

この日はもうちょっと続きがあるので、ひとまずここで切りたいと思います。

久しぶり。

うっす!

お久っす!!!!

 

気付けばだいぶ放置してしまって前回の投稿から一カ月以上過ぎちゃいましたね。毎週日曜日のこの時間は憂鬱です。ブログ書こうと思ってもなかなか気が乗りません。土曜日はなんだかんだで忙しい。かといって平日には疲れて書く気にはならない。

気ままな更新ペースになりそうですが、大目に見てあげてください…

 

というわけで今回は最近のお出かけなんかについて書こうと思います。

 

7月

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上海に二泊三日の弾丸で行ってきました。

なぜ上海に?特に理由はなし。

ただ向こうでダラダラして、歩いて、飯食ってただけ。

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上海はとにかく人が多く、気温も37℃くらいまで上がるくらい暑いし、昼間に出歩くのはなかなか辛かったです。そして超大都会。

八角の匂いが街中から香っていると、中国来たな~て感じします。

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上海ではドリンクタイプのヨーグルトが流行ってるらしい。

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上海では今が旬のザリガニ。

エビとカニの中間っぽい味で、存外においしい。が、どこで採ったモノかとかはあまり知らない方がいいかもしれない。

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羊肉ラグメン。味をどう表現したらいいのかわかりません。美味しいんですが、とにかく日本だったら絶対に食べれない、って感じの味付けです。

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ファミマ(中国では"全家"という)で買ったヨーグルト風味のアイス。

安い割にめちゃくちゃうまい。中国に行く機会があったら是非とも食べてほしい。

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一応、老街的なところにも行きました。

2月に行った麗江を思い出します。

ちなみに今回は外国人も数多く利用するユースホステルに滞在したのですが同じ部屋の欧米人たち、ほとんどが昼間はずっと寝ていて夜になると活動し始める、といった具合で生活リズムが合わせづらく大変でした。いったい何してたんだろ彼らは。良くない遊びでもしてたんでしょうか。

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滞在先近くの通りです。南京東路というメインストリートのほど近くですが、道先で電動バイクがオラ邪魔だどけやと言わんばかりにプープー言わして夕方になると住民同士が大声で炉端で喧嘩を始める、「ああ、中国だな…」って喧騒も大都会のど真ん中ながら楽しめます。

まあ、文化だからね。これがこちらではフツーのことなんでしょう。

上海はまあこんなとこです。

改めて振り返るとほんと何しに行ってたかわかんねえ。

 

8月

8月6日は平和記念公園の式典に行きました。

オバマ効果もあってか、ここ最近は本当に外国人が増えたように感じます。

川辺で座っているときに話しかけたイギリス人カップルは日本周遊の途中だそうで、この日に広島という場にいることができて非常に光栄だ、広島の次は城崎温泉に行く…とのことでした。

今思えば彼らにイランの問題についてどう思っているのか聞いてみたかった。

まあ初対面でそんな難しい問題に取り合ってもらえるかわからないけど。

ただおれが外国人と話した時はなぜか捕鯨だとか原発だとか北方領土だとかのシリアスな話題を振られることが多かった。そんな経験を踏まえて思うのは、トピックに対し問題意識を抱いた上でもっと言葉を磨いて、自分の思うところを正確に発することが出来たなら…と言うことだ。後悔は尽きない。

 

山の日は鳥取県の山奥にある三徳山三仏寺修行に行った。

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こんな感じで険しい道のりを進みつつ山の奥地にあるお堂を目指すので、まさに修行だ。

修験道の修行場としては有名な、密教系の寺院だ。

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そしてこちらが最深部にある投入堂、国宝だ。

なぜ投入堂と呼ぶのか?名前の由来はというと、むかーしむかし、力を持て余していた超スーパー法力な陰陽師チックな人が建物ごと絶壁の窪みにサイコキネシスを利用して建物を投げ入れたから、とのことだ。

由来はともかく、なぜそこにお堂があるのか?

疑問は絶えない。修験の道は難しいのだ。

 

 

そして今日はというと、香川県ミュージアムに現代アボリジナルアートを見に行った。

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One Road=ここではCanning Stock Route(白人入植者が畜産・牧羊などの産業振興のために周辺を井戸などで整備した道)のことを差す。西洋の目線では語られることのなかったアボリジニの目線から、この道に対する彼らの世界観を描いた作品を展示する。

というのがだいたいの概要。しかしおれ自身がまだアボリジニの精神性や価値観というものを深く理解していないがゆえに、なかなかに彼らの世界観を理解・説明するのが難しい。

それほどに彼らの世界の見方は独特で、所有を基本原理とする経済システムに生きる我々とは対極にあるような、そういう考え方を表すようなイメージが、作品を見るだけでも伝わってきたような気がする。

確かオーストラリアでアボリジニに関する講義を聞いたときも、彼らの考え方には非常に独特なものがあったと記憶している。カンガルーも人もヘビもトカゲも、創世の時代はみんな同じものとして生まれたみたいな…だめだ思い出せない。

図説も買ったことだし、しばらくはアボリジニの世界観に浸ってみたいと思う。

 

 

欧州旅行⑤ Paris part1

だいぶながーくなりましたが、

ようやく旅行記再開です。

 

もう帰ってきてから三カ月が経とうとしていますが、まだ半分も書ききれていません。

一体いつになったら終わるのでしょうか笑

 

というわけで今回ははベルギーのバーでドイツ人とオーストリア人のおっさんコンビにベロンベロンに酔わされた翌日、二日酔いのパリ編です。

 

前回までのブリュッセル編はこちらを参照

karinto-monster.hatenablog.com

 

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高速鉄道THALYSでブリュッセル南駅からパリ北駅に移動。

パリ北駅に降りたら今までよりもピリッとした雰囲気が漂っているように感じました。

やはりテロを警戒してなのか、警官の数がこれまで訪れたどの都市よりも多い。移民っぽく見える人々も数多く見受けられました。

やはり前々から聞いていた通りパリは漢らずしも治安のいい街とは言えなさそうな雰囲気を電車を降りた瞬間からビシビシと感じます。身を引き締める思いで、これまたあまり評判のよろしくない地下鉄に乗り込みます。

 

パリの地下鉄に乗っていると、バイオリン奏者やヒップホップ崩れのパフォーマンスをする子供(まあ最後にメルシー、マネーと言ってくるんだけど)、そして明らかにスリだろうという者まで、様々な人々が見受けられる。

日本の地下鉄とはワケが違う。ちなみに日本人観光客が多い主要駅では「スリに注意してください」と言う日本語のアナウンスが流れて驚いた。それほどにパリの地下鉄は油断は禁物なのである。

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地下鉄のホームでは中東からの難民と思しき人々が彷徨っている姿も見る。思えばオランダでも「シリアから来た友達が困ってる。金よこせや」みたいなことを言って絡んでくる奴もいたし、中東で起きている出来事はヨーロッパにまで影響を及ぼしているほどの大きなダイナミズムであることを、このフランスにいてもまさに感じた。

 

いろいろ考えながら、そして二日酔いにうなされながらもユースホステルに荷物を置いた後やっとこさ辿りついたパリ最初の目的地は、近代西洋絵画の殿堂であるオルセー美術館だ。

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このオルセー、かつては駅舎だった建物を改装して美術館としたものらしく、エントランスを過ぎて最初に目にする広々とした空間はその名残と言ったところなのだろう。

ちなみにヨーロッパの美術館はどこもこんなご時世ゆえかボディチェックが厳しく、厳戒態勢を布いているという言葉がピッタリだ。

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ホドラー

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ロートレック

f:id:karinto-monster:20160627225447j:plainゴーギャン

 

近代を代表する画家たちの作品が一堂に会する、非常に豪華な展示内容。

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誰もが一度は見たことがあろう、ミレーの「落ち穂拾い」

ゴッホにも多大な影響を与えた、農民の生活にスポットを当てて描いた画家のひとりです。

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まさに今東京で展示中だっけ?

ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」

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ゴッホコーナーもあるよ

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でもやっぱり、タヒチシリーズに顕著に見られるような暖色豊かなゴーギャンの絵が好きだな~

 

オルセー美術館、個人的には翌日訪れたルーヴルよりも楽しめた気がしました。

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そろそろ寝ますので今日はこのへんで。

次回パリ編パート2に続きます。

 

 

ウナギを考える

今年の7月30日は何の日か、みなさんはご存知だろうか?

 

夏もいよいよ本番を迎えうとするその日は、ウナギを食べることで知られる「土用の丑」の日だ。

7月にも入れば、スーパーの鮮魚コーナーで「土用の丑」と書かれたウナギの販促用のぼりが散見されるようなシーズンになる。

もっとも、近年は土用の丑の前後だけでなく年中ウナギをスーパーで見かけるようになったが、やはりウナギと言えば土用の丑こそが我々日本人にとって、ウナギを食べる特別な日になるのだと思う。となればこの日のウナギ食習慣を広めた平賀源内の広告術たるや、いったいどれほど長けていたのだろうと…なかなかに興味深いものがある。

 

話を戻す。今日は平賀源内の話ではない。

平賀源内が広告を銘打った、ウナギ食そのものの話だ。

 

言うまでもなく、日本は世界におけるウナギの最大消費国であり、同時に最大輸入国でもある。

しかし二年前の2014年6月、事態は変わる。国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストニホンウナギが登録されたというニュースが国内を駆け巡った。

絶滅危惧1B指定、パンダと同じレベルでニホンウナギが絶滅の危機に瀕しているという判断を科学者たちは下した、ということになる。

これを機にウナギの価格は上がり、消費量はガクンと落ちていくのかと思いきや、事態はそうは運ばなかった。現在でも有効な規制も何も布かれず、国内での稚魚の密漁は依然と行われており、アジア圏に生息する近縁種に手を付けたりと日本人は自らの胃袋を満たすためなら何でもするのだな、という印象をここ最近は受けつつある。

(今回は触れないが、太平洋クロマグロやサンマに関しても問題構造が非常に似ている気がする)

 

…とまあ問題の背景にはちょっぴり触れたが、今回はそんなウナギマーケットを取り巻く構造上の問題の概説をするわけではない。今回スポットを当てたいのは我々消費者の態度にこそ問題があるのでないか、という話だ。

 

先ほどチラッと触れたように皆さんもウナギが絶滅の危機に瀕しているというニュースはもちろん耳にしたはずだ。

「このままじゃウナギが食べれなくなる」というニュースにショックを覚えた方も多少はいるはずだ。でもそれに対してこれからどうするか、どう消費態度を改めるか?と言う風に行動を伴った一般消費者は非常に少ないとみていいと思う。

でもなけりゃあ、あんなにスーパーに所狭しとウナギが並ぶ風景は見られまい。

火の無いところには煙は立たないし、需要のないところには供給はないのである。

 

そもそもを思えば、ウナギは年一回食べられれば良いもの、いわゆるハレの食べ物だったはずが、今や年中スーパーで販売され、回転寿司にて供されている始末である。季節感もへったくれもあったもんじゃないし、なんだか少し風情を欠いた景色にように見える時もある。まあこれは完璧に個人的な印象なのだが…きっと平賀源内も自らの打った広告が長い月日を経てこんな事態を作り出すとは思わなかったろう。

 

きっとこの問題を考えるうえで一番の問題になるのが、と言うかもうすでに現実に現れていのだが、資源状況が危機状態にあるにも関わらず無関係を装い行動に移さない消費者の態度そのものだと思う。

結局あのニュースの後もウナギの消費量が決定的に落ち込むことはなかった。むしろ落ち込むような事態があるとするならば、資源不足が招くウナギ価格の高騰ぐらいいでああろうか。あれだけ「食べられなくなる」だとかセンセーショナルに報道されたとしても、消費者の意識を変えるには至らない。

日本人はグルメな民族だと思う。スーパーにもいろいろな国内外を問わず水産畜産農作物さまざまな物産が揃い、顧客のニーズに応えている。でも消費者達はその食べ物の背景に何があるのかを知ろうとしない。

アメリカ産のオレンジが地下水尽きかけの灌漑農地で栽培されたのを知らないように、外食店で供される野菜のほとんどがいったいどこの国のどんな農薬を使ったものかも特に気に掛けないように、ウナギに関してもどんな流通ルートを辿って我々の食卓までやってくるのか、知ろうとしない。

 

自分個人が思うには、食の豊かさを多様性に求めるとするならそれが実現するのにいったいどんな背景があるのか、もっと知ろうとしてもいいんじゃないかと思います。むしろ豊かさを享受することは責任も伴うんじゃないかなと思います。

 

とりわけウナギに関しては絶滅に瀕している資源です。もしもウナギ食文化が本当にいいもので将来にわたって残していきたいと考えているなら、そこに行動はついてくるはずです。「どうせ絶滅してしまうなら今食べてしまわないと」なんて思うなら話は別ですが。

 

少しずつ近づいてくる土用の丑、今年ウナギを食べるか否かは皆さん次第ですが、もし食べるとするなら、あなたの食卓に乗っているウナギがいったいどのような背景を経てそこに至っているのか、少しだけ考えてみてはいただけないでしょうか。

 

気になった人は以下のページも見てみてください。ちょっと古いですが…

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

半年が過ぎようとしているのでチラ裏まがいのこと書く

こんばんは

 

いよいよ今年も約半分が終わろうとしていますな。

6月も後半に差し掛かり、突然だが、みなさんは今年の初めに誓った「新年の抱負」なるものを覚えていたりしているものなのだろうか?

いや、そもそも新年の抱負なんてのを立てている人はそれほど多くないのかもしれない。

それとも三日坊主・正月三が日で儚くも散りゆく定めにあるというものが、新年の抱負とでも言えるのかもしれない。

 

焦燥感

抱負と言えるかは怪しいが、自分は今年の初め、今年のテーマは「焦燥感」だと設定し、折に触れてそんな感情を思い起こしてきたつもりだ。

何に関しても常に焦りを感じながら生きていたい。

余裕がある、安定しているなんて状況を志向してはいけない。

常に何かに追われているような感覚を覚えながら今年は過ごしたい、と考えている。

以前も書いたかもしれないが自分は「何もしない」ことが本当に苦手なタイプなのである。時間があってもじっとしてはいられない、むしろそれは何かをするためのチャンスなのだと考えてしまう。

限られた時間を濃厚なものにして味わいたい、そういう思いからこんなテーマを設定したつもりだ。

だけどよく考えたら、常に何かに追われている=焦燥感を感じるという状況は、今年のテーマにとして設定してからと言うよりは、生来の物事の考え方に由来するもので、なにか自分の中で変革を起こすための目標設定としては失敗だったのかもしれない笑

 

最近ネットでふらっと見かけた言葉の中に、なかなかいいものを見つけた。

誰の言葉かはわからないが、「命はもっと粗末に扱え」というものだ。

もっと粗末に扱ってこそ、普段からは認識しえないありがたみがわかるという意味なのだろうか?いやもっと考えようはあるかもしれない。

安定した、危険を感じない環境に身を置き続ければ人の命はその輝きを失う、とも読み取れる気がする。常に移り変わる状況に命を曝すことにこそ、人の生きる力は強さを増すんじゃないだろうか。

 

近頃はなんだか生活が冗長になりつつある気がする。

小さなことから、命を研ぎ澄ますようなきっかけを、焦りを感じながら見つけていきたいもんですな。