GLIM SPANKYの「話をしよう」について
「阿吽の呼吸」という言葉がある。
2人の人物が言葉を交わすことなく意思を通じあえるようなさまを表すという意味だ。
よくスポーツの場とかで使われることも多い言葉だけど、実際にこんな様子を現実に体現している二人組にはなかなか会うことができないのが世の中の正直なところ。
なぜかっていえば、人間は簡単に言葉を介さずに意思疎通がとれるほど器用にできてないってことなんだと思う。
結局、大事なことはお互い言葉で伝えあわないと生きていけないのが、社会的動物人間の宿命だ。
繋がりあう勇気を
おれの敬愛するロックデュオ、GLIM SPANKYの一曲に「話をしよう」というものがある。
この曲は彼らの楽曲の中でもとりわけ温かみにあふれた歌詞で、激しい曲が多いGLIMの曲の中でもボーカルの松尾レミさんはこの曲だけは非常に優しく歌っているように聞こえる。
この曲の一節を見てほしい。
声無き声に勇気を 繋がり合う勇気を
ただ思ってるだけじゃ未来は何も変わらないから
気取る心じゃ伝わんない 言葉を超えて 話をしよう
アルバムを買ってから何度も聴いたけど、この一節は非常に耳に残る。
というのもこのころは、社会人になってからというものの、仕事の中のかかわりでしかほとんど人と話さなくなり、なんだかそれさえも薄く、浅くはかないものに思いがちで、
何か自分の思うところを相手に話しても無駄なんじゃないかと、一種の諦念が根付いてきたように感じる。
結局自分のことは興味を持ってもらえないし、自分も同様に相手のことに興味を持とうとしない。
そんな一方で、それは他人と繋がりあおうとしない自分の逃げの態度を他人の責任に転嫁してるだけなんじゃないのかってことにもうすうす気づいてる。
声無き声に勇気を 繋がり合う勇気を
本音で語らうのは本当に怖い。
相手が懐の中に抱く思いを覗けば、それに押しつぶされてしまうかもしれないという恐怖を感じることもあるかもしれない。
でも実際問題、世間の人々がみんなそうかというとそんなことはなくて、結局は自分が相手という鏡を前にして増幅されたヘイトの影におびえているだけに過ぎないという事実にある時ハッと気づくこともある。
ちょっぴり勇気を出して始めてみた何気ない会話から滲んだ思いが、人と人とを結びつけ始めることは多々ある。
自分の思いが受け取られたと感じる瞬間、他人に映るヘイトの影は消え去るから。
いくら技術が発達してコミュニケーションが多様化しても、Face to Faceに勝るものはない。最初の一歩を踏み出す重要性、すごく普遍的で当たり前なことなんだけど、忘れがちな大事なことをこの歌は思い出させてくれる。
気取る言葉並べないで 大袈裟なくらいの言葉にしよう
ねぇ話をしよう
「すみません」でも「ありがとう」でも「どういたしまして」でも、飾る必要はなくて、音として相手に対して言葉を発することからすべてが始まる。
繋がり合うこと―「阿吽の呼吸」なんて高等なものよりも、ちょっと勇気を振り絞ればできることに気づけて良かったよ。ありがとGLIM SPANKY。