諸法無我

旅行記や、日々思うことについて

我々のうちに潜む思想ー自己責任という言葉について感じていること①

あけめしておめでとうございます。

2018年の幕が上がりました。

今年も、だらだらと、日々のよしなしごとについて徒然なるままに

投稿していきたいと思います。

 

今年の年末年始は台湾にいたのですが、戌年になって早々、元日に路地で犬に噛まれるというトラブルに見舞われました。滞在先のオーナーさんには縁起がいいねと言われましたが、全然笑えないやつです。

飼い犬だったので致命的なダメージにはならないかと思われるのですが、

念のため帰国早々破傷風狂犬病のワクチン接種を数回に分けて現在も行っています。

ワクチンの副反応とどれだけ因果関係があるかわかりませんが、いろいろと不安になるような体調の変動もあって、ちょっと精神的に苦しいのが正直なところです。

とにもかくにも今回の件は自分の海外旅行における危機管理に対する認識を変える大きな出来事になりました。

この辺は海外渡航に際して皆様にも知っていただきたい話がたくさんありますので、また別の機会に書きたいなと思ってます。

 

さて、話は変わりますが

前回の投稿でチラッと予告させていただいたように、

今回は昨今の日本社会でもよく取り上げられる「自己責任」という言葉について

私の思うところを書いていきたいと思います。

 

そもそもなぜ「自己責任」というワードを取り上げようと思ったのか。

実はこの言葉、2004年のユーキャン流行語大賞にもノミネートされています。我々世代(20代半ば~前半)では記憶に残っていない方が多いかと思われます(私も覚えてない)。

調べてみると、どうやら同年に多発したイラク戦争に伴う日本人の誘拐事件のなかで、被害者に対する「自己責任」バッシングの嵐が吹き荒れていたから、らしいです。

イラク日本人人質事件 - Wikipedia

当時は小学5年生?だったか。ぼんやりとイラク戦争の報道は連日テレビで流されていたのをぼんやりと記憶している。しかしこの辺の論争はさすがに小学生の身分には理解が追い付いていなかったようで、改めて当時の報道や世論の動きについて調べてみると近年起きている様々な事件の中でも同じようなことが繰り返し論じられているのだなあ、と思ったのが正直なところです。

 

そんな古くから続く自己責任論争を再燃させた、最も皆さんの記憶の中にも新しい事件はおそらく2015年1月のISISによる後藤健司氏及び湯川遥菜氏の誘拐・殺害事件かと思います。

ISILによる日本人拘束事件 - Wikipedia

この事件は、当時の自分にとって「自己責任」論争について考えさせられるきっかけになった出来事であり、また同時に当時の国内世論の混乱…と言うよりかある意味現実を直視できないが故に各SNS上等で見受けられた"錯乱"をリアルタイムで目にして、非常にショックを受けた事件でもあります。

 

今回はこの件に寄せて自己責任という言葉について自分の感じたこととを書いていきたいと思います。

本事件に関しては2年前の事件にもなりますので各界の著名人が当時の現象について検証や考察を行っており、ここでは調べて分かることはあえて詳細については省きます。ここで述べたいのは、当時の世論様相に対して自分が実直に感じた違和感と、この事件に根差すある問題は、この件に括られず、社会一般の広い観点でも語られるのではないか、ということです。

整理すると、今回「自己責任論」に寄せて書くポイントは以下に示すものになります。

①当時の国内世論の様相に対し、自分が何を"違和感"として感じたか

②「自己責任論」の語られる社会がどのような病理を抱えることになるのか

皆さんもちょっとお付き合いいただき、肯定的であれ否定的であれ私の発言から何か感じていただけるものがあれば嬉しいです。

 

①当時の国内世論の様相に対し、自分が何を"違和感"として感じたか

事件発生当時('15年1月)、当時大学生だった私は当時SNSや動画サイト等を介した今までにない勢力拡大を見せていたISISは国内メディアにおいてもそこそこ大きく取り上げられていたように記憶しています。

そして湯川氏に続き後藤氏が拘束され、2名の殺害予告・身代金や戦闘員の釈放が要求がインターネット上の動画で拡散された際の衝撃は、まさか日本人が、ともとれるような衝撃を日本全体が身をもって感じていたのではと思う。ある意味、ISISのテロリズム広報戦略的成功をもってこの一連の騒動は始まっていました。

Twitter上でニュースに対する人々の反応を見てみると、「怖い」「恐ろしい」「自業自得」「危険と分かって行ったのが悪い」といったように様々なものが見受けられたのが第一印象だった。中にはやはり「自己責任」という言葉もあり、この時点で自分の中では言葉にはならないが、モヤモヤとしていたものが生まれていたことは記憶しています。

個人的には「自己責任」という言葉で人の命を匿名の安全圏から切り捨てるような発言をする人がこれ以上増えてくれるなよ、とは感じていた。

 

人質解放に受けて明るい兆しも見られず国内世論が割れる中、1月29日にタレントのデヴィ夫人がブログを更新し、その中で人質事件に触れたことが話題になりました。

ameblo.jp

当時の私もこのニュースを目にし、言葉にならないショックを受けた。

最もショックだったのが、この記事を皮切りに「私もそう思っていた」「夫人の言う通り」といったように、「自己責任」を肯定する人々の意見が、今まで抑えてきたものをまるでパンドラの箱を開けたかのように噴き出してきたような印象を受けたことです。

潜在的に自己責任論が日本中に広まっていることは何となくはわかっていた。この事件をめぐり人々の意見があらゆる方向に割れていたことも当初から知っていた。

しかし、自分は"知ったつもりになっていた"だけだったのをこの時強く感じた。

この記事が世に放たれたことで、国内の意見の分断が一層浮彫りさせられたように、当時の私は感じてしまったのです。

自分の個人的に望まない意見-自己責任論に根差した意見を持つ人は世の中にこれほどかと思うくらいに存在している、そう思うと、ひどく狼狽えてしまった。

どうして危機的状況にある人に対して、それも日本人に対して「自決せよ」だのという言葉を吐けるのか。怒りとも悲しみともわかない感情が沸き起こり、ろくな結論も出ないまま考え込んだのを覚えています。

 

私が自己責任論について違和感を覚えるのは、民主主義を理念とする国家はそもそもこの言論に振り回されずその義務を全うするべきであると考えるからです。

民主主義はその大前提として、弱者を保護する理念を備え、かつその救済措置も取り入れた理想的な社会を構築していく必要がある。憲法もそれに連なる諸法律・諸制度も弱者の存在を認めているからこそ整備されている。弱者にも様々な特性があり、先天的なものから後天的なものまで、その救済の範囲には例外があってはならない。

拘束された2名にどのような事情があったにせよ、いくら「自己責任」の上で行動を行った末に拘束されたとしても、国家は一方的に国民に対して保護の義務を負う。

なぜなら「責任」は切り分けの難しいものであり、自己によるものだけでなく時には自己の制御下に置くことのできない環境の変化により危機的状況に陥ることも想定されるからです。自己の範囲内・範囲外にかかわらず襲い来る脅威に対しては包括的に国家がカバーを行うべきだと思います。

もはや「自己責任」論の到底及ばない危機的状況にある国民に対しても、国家はその救出に向け全力を注ぐ。それが民主主義国家のあるべき姿では、と思います。

したがって国家による国民の保護義務はその最小構成単位たる私たち自身が決して否定してはならない。というのが、私の考えです。

よって、そもそも「自己責任」論についてこの問題で語ること自体に無理があるのでは、とも思っています。

※実際の当時の日本政府の対応についてはここでは触れません。

 また別の問題かと思いますので。

 

問題の根はやはり被害者に対する個々の国民の態度そのものにあると思います。

弱い立場にある人々の観点が、ごっそり抜け落ちてしまっていると感じます。

「自決せよ」「自己責任」と述べる人々は、もし自らの責任の範囲を超えて危機的状況に陥った時に同胞によって蹴落とされることを許すのでしょうか。

なぜ、弱い立場にある同胞の命を助ける方向に考えが向かないのでしょうか。

一体何が人々に「自己責任」を語らせるのでしょうか。

「自己責任」論の裏には「世間」があり、その「世間」は同一の共同体に対して迷惑をかける人々に対し牙を向けるよう仕向けます。これは、「村八分」を行ういわゆるムラ社会というものと同義です。

つまり自分たちの共同体の構成員によって迷惑をかけさせられた/恥をかかされたという思いが人々をそう動かしていた、ということなのでしょうか。我々の「世間」は弱い立場にある人々はその存在を共同体から切り捨てることをもいとわないのでしょうか。恥の文化とも言いますが、自己責任論のエスカレートの果てにこんなにも血の通わない共同体を構築してきた、これが日本人の求めてきた「世間」なのかと思うと、なんだか非常に悲しく感じます。

私の感じた違和感とは、「自己責任」論の裏にある弱者に対する共感性の欠如。

このことだったのではないかと今は思います。

 

この事件は湯川氏・後藤氏両名のISISによる殺害をもって終結しました。

そして我々日本人の持つ思想の危うさもこの一連の騒動を通して(SNS等の発展による個々人の意見の可視化もあり)露出したのでは、と強く感じています。

 

続きますが、長くなりそうなのでまた次回に。

私の2017年末とぼんやり考えていること

こんばんは。

年の瀬に差し掛かりクリスマスイブときていますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

思えば今年は「咀嚼」の年にすると銘打ち、自分の中に流れ込むあらゆる情報を噛み砕き、吸収していこうと試みた一年でした。

karinto-monster.hatenablog.com

(今年全然更新してない。。。)

咀嚼の名の通り、今年は今までにないくらいジャンルを問わずいろんな本を読みました。

そのすべての刺激を噛み砕けてかはわかりませんが、咀嚼を意識するのとしないとのでは多少読み方も違ったんじゃないかなーっていうぼんやりとした思いはあります。

咀嚼して自分の中に生まれた思いをFacetoFaceでお話しできたりする場があったらなぁ。。。なんて思っています。

やっぱり、自分の口に出して発信することが思考を鍛える一番のトレーニングになりえると思うので。こういうブログだと一方通行の発信になりがちなので。。。

 

ちなみに最近読んだもので印象的だったのが我らがキョンキョン小泉今日子氏の対談集。

小泉放談 (宝島社文庫)

小泉放談 (宝島社文庫)

 

 ほぼ表紙買いだったけど50代の女性が考えていることなんか普段は母親の口以外からはうかがい知れないし、ある意味新鮮で面白い。小泉今日子さんが諸先輩方と「齢50を迎える」ことについて対談する、という内容なのだけれど、世代の離れた人々の考えているあれこれも結局は我々同世代の悩みと本質的に同じなのかもね、って思えるような話もあって20代の人が読んでもなかなか考えさせられるところもあると思う。

 

特に印象的だったのが平松洋子さんとの対談で「やらないことを決めること」という話題が出たこと。これって50代じゃなくても人生の中である選択を行うときにすごく重要で普遍的な考え方だと思った。

 

小倉ヒラクさんも同じようなことを言っていた(30代とは言ってるけど、自分は全年齢に言えるのかなと思います。)。色々と目移りしやすい自分にも刺さることが何となくあってなんだかジーンときました。さすがに地獄に落ちるか??とは思わないけれど重要な選択観であることには同意します。

 

あともう一冊、今日買った本がこれ。

相模原事件とヘイトクライム (岩波ブックレット)

相模原事件とヘイトクライム (岩波ブックレット)

 

 昨年の夏に起きた凄惨な事件の本質を探り、ヘイトクライム問題の根絶について述べる、といった内容。今思えばあの事件の怖さは加害者の「正義」を実行したことに対する世論の思想的なカウンターが完璧に機能してなかったことだったのかなあ、って思う。

健常者たるわれわれの中にも優性思想の芽は潜んでいて、ある意味加害者の思想にも部分的な肯定を社会が認めてしまったことに対して、あの事件が起きた時からなんとなく不気味さは自分は感じていたんだと思う。今になってやっと言語化に至ったんだけど。

この頃よく問われる「自己責任」の問題にも通ずるところがあるんじゃないかなぁ、とぼんやりこれも考えています。

 

「自己責任」の話はまた今度、数年前の1月に起きた別の事件にも寄せて書けたらなあと思います。その事件も個人的には当事者でもないのに異常なまでに精神的にダウナーになるほどの衝撃を受けたものなので、まともな文章として組み立てられるか正直自信がないです。来る1月に向き合って、しっかり自分の思うところを書きたいと思います。頑張ります。

 

もうひとつ、決めたこと

前々から興味があって学習意欲はあったのですが、中国語の勉強をまじめに始めようと思います。もともと中華圏に予行する機会が多かったので会話のスキルを上達させたいという思いがありました。

なかなか継続して物事に取り組むのが苦手なタイプなので前途多難ですが、ネイティブの先生と発音からじっくりじっくり腰を据えて取り組んでいきます。

旅先の料理屋でナチュラルに会話ができるくらいには…と思い、勉強に励みます。

今年の年末も台南に行ってくるので、飯食ってだらだらするのに加えて学習に対するモチベーションも高めに行ってきます。こっちも頑張ります。

 

だらだらふらふらとした文章に今後もお付き合いいただければ幸いです。

最後に、個人的ベスト2017ミュージックでお別れを。

www.youtube.comこれを聞くと2017年を思い出せる、そんな曲に出会った気がします。

奪われているもの

こんばんは

最近はあらゆる刺激や情報の受容に徹し続けてきたところがあって、ぼちぼちと久しぶりに発信したいという気持ちが高ぶってきたので軽く文に起こしてみます。

 

今は某企業の寮に住んでいるのですが、中の設備はといえば、まるでビジネスホテルのような最低限のものがあるだけで、もちろん料理ができるような環境にはありません。食事は寮内の食堂で一応事足りるようなシステムにはなっているのですが、やっぱり調理という生活の一片を奪われているような感覚があって、頭の中はなんだかモヤモヤしておるわけです。

 

もちろん料理ができる環境が欠けているということは、料理に関わる副次的な部分の生活の営みまで制限されているように、感じます。例えば釣りも自分の中では大事な趣味の一つで、釣った魚を料理して食べることは釣り人にとっては代え難い、至福の瞬間ともいえます。

 

ところがキッチンはじめ調理環境が不十分であれば、結局釣った魚の処理にも困ってしまい、釣りに向かうモチベーションもなんだか削ぎ落とされてしまうような、そんな風に感じてしまいます。

 

じゃあ寮での暮らしがそんなに悪いことなのかといえばそうではありません。食堂があるということは裏を返せば食事を提供してくれる環境が整っていて、自前で日々の食事をアレンジする必要がないということです。その分一般的な生活よりも時間が浮く、とも考えられます。

 

自分にとっての事例に限らず、生活のあれこれに便利が浸透しているのは、確かに良いことなのかもしれません。テクノロジーの進歩や技術の向上、劇的な環境変化がもたらすのは、日々の生活の営みの高速化、或いは時短という形で私たちの生活をますます“便利”にしてくれる。

 

でも便利さの中に自分にとって何か大切な営みが奪われていく感覚を覚えるのは、日進月歩していく私たちの生活の中でこれからもっと増えていくのかもしれません。

便利さと引き換えに何かを手放すことで、何か大切なものを奪われているような、そんな気がします。

 

それとも既に大きなものを、便利さを享受するために奪われてしまったのかもしれません。

だとすれば安易に便利な生活の恩恵にあずかることが、時に自分にとって非常にマイナスな面を持っていることがあるのかもと、少しだけ引いた目で物事を考えられるようになれれば、それは最終的に自分の感性を守ることにつながる、そう思いませんか?

 

ふと生活を見つめ直し、自分にとって何が大切なのか、奪われたくないものは何なのか、少しだけ思索にふけてみた、そんな話です。

ふと考えた「発信する願望」について

おひさしぶりでございます。

 

ご無沙汰です。

 

もうしばらく書いていませんでした。忘れてました。スミマセン。

最後の交信がいつだったかを振り替えてみれば、もう約2か月前にもさかのぼります。

こんなにも更新していないブログなのに、アクセス解析を見てみるとアクセスがない日のほうが少ないくらいなんですよね。不思議なもんです。

それだけ見てくださっている方がいるというのはありがたいことです。

中身もクソもない頭の中垂れ流しの文章ですが、どうかこれからもお付き合いください。

 

 

さて、今日は何を取り上げようかなとふと考えてみたのですが、そもそもこんなにも更新が滞っていた理由を考えてみることにしますよ。

・仕事で疲れて帰っても気力が起きない。ねむい。

・かと言って土日はほとんど出払っているので文章を書く気にならない。

・昼間にいいネタを思いついても夜には忘れてる。

・そもそも何かを発信したいという願望に至っていない。

 

ざっと思いついてこんなところです。

個人的には4つ目が結構いいポイントを突いてるんじゃないかなと思います。

 

 

発信する願望がない??

何か自分の頭の中で回り続けている思いを発信する手段としてブログを始めた気がするのですが、最近は強く何かを伝えたいという思いが弱くなってきたように感じます。

明確な理由はわかりませんが、一つだけあえて書くとするならば、1年間働きの場に出たことは少なからず影響しているんじゃないかなと思います。

 

新しい知識を得ては頭の中でこねくり回し、新しいものとして世に広めたいという思いが、少なからず以前の自分には合ったと思います。というのもそのころは大して働いてもいない、大人の社会を知らずに済んでいた身分だったから。

言い方を変えてしまえば、世間知らずだったがゆえに自分の思うところが何か世の中を変える力がると思い込んでいた、ということなのかもしれません。

 

しかし今や労働する立場にある自分は、狭い世間ながら、ある程度は大人の社会に足を踏み入れています。大人の社会にはそれこそこれまで自分が目にしていた世間とは違って、関係する人物や事柄がこれまで以上に増え、そしていかに自分が矮小な存在であるかを少しは自覚できるようになったのではと思います。

そのような中で認知する世間が大きくなればなるほど、相対的に自身の存在は小さくなり、

「何か言っても世の中なんて変わりやしない」なんて思いに少しずつとらわれてしまっているのかもしれません。1年間という短い期間のなかで、自分はこうも社会に塗り替えられてしまったのかと思うと、自分は思っていたよりも周りのものごとに影響を受けやすい性分だったりするのかもしれません。

 

 

でもそれってダサくない??

あーでもすごく嫌ですね、こういう世の中に負けて自分の思いを曲げました、みたいなの。

ブログのタイトルにもなってる諸法無我という言葉、この世のすべての事物・一切衆生は絶え間なく変化し、その個有の「我」を持たない、という意味です。好きな言葉です。

確かにその通り、自分にも純然たる我は存在しないと思っているし、世間の様々なものに影響を受けて日々変化しながら生きている、いびつな生き物です。

諸法無我の示すように、世間の物事から多くの影響を受けることは間違いない。しかしそのすべてを悪いものと捉えてはいけないのかもしれない。外部の様々な刺激を柔軟に吸収してそれを別の方向に受け流していければ…何かを伝えることが些細なことでも誰かに伝わり、その人の心を動かすきっかけになるのかもしれない。

それこそまさにすべてのものが関わり合っているさま―諸法無我そのものだ。

 

もう少し自分が発信していくことを肯定してもいいし、それに自信を付け加えてあげられればいいのかもしれないなあ。やがてそれは、発信したいという願望につながっていくんだろう。

離島で晴釣雨読

こんばんは。

お久しぶりのブログです。

 

この三連休は瀬戸内海に浮かぶとある離島にこもり、晴釣雨読の生活をしてきました。

とはいってもほとんど雨は降らんかったんですがね。

 

島に渡り先ず目を見張ったのが対岸のどデカイ船の数々。

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島の対岸から見える修繕中?のKLINEの自動車専用船

かっこいい〜

 

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浜もきれいです。

 

宿は島唯一のゲストハウス。

古民家をリノベーションしたものだとか。

井戸や五右衛門風呂が現役で使われていて、ここに泊まればもちろんその恩恵に預かれます。

古きものながら趣があって、非常に良いです。

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そして休まる暇もすべて釣りに投入。

釣果はイマイチですが、朝飯を作れるくらいは確保できました。

もちろんキッチンも使えます。

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夕飯時はゲスト皆で集まり同じ釜の飯を喰らいます。

出来れば釣った魚を用意したかったところですが、結果がついてこなかったので島の名物魚屋で買ったものをテキトーに料理しました。みんながみんなこれをやると必然的に量も多くなるので、なかなかなご馳走になりました。

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内装はこんな感じです。

ここに机を準備して、夕飯どきになると集います。

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ちなみに宿のすぐそこは港になっていて、すぐに釣りができちゃいます。

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なぜか島のゴミ拾いイベントにも声をかけてもらい、なんとなく参加する運びになりました。

ゴミを拾うはずだったのですが桟橋のワカメなんかを採れそうな引っ掻き棒を発見しました。

思わぬ拾い物に歓喜

 

 

 

また訪れたくなる、ゆっくりとした、充実した時間を過ごせるいい島でした。

 

遅ればせながら今年のテーマと。。。

今年のテーマ

あけおめっした。

遅ればせながら2017年がやってきましたね。

 

もうこの時期にこんな話をするのも若干ナンセンスなのですが、

皆さんは書初めとか新年の抱負とか決めたりしてますか?

自分は毎年、今年はこの言葉を指針に一年を過ごしていこう、って意味で毎年テーマを設定しています。

先の2016年は「焦燥感」でした。

常に焦りを感じつつ、何かに追われるかのように止まることなく行動し続けたい、そして見るもの聞くものすべてを吸収し続ける。という思いから決めたテーマでした。

仕事にしても趣味の領域にしても、受ける刺激はすべて自らの糧にしていこうと時間を見つけては興味のあることに手当たり次第に首を突っ込んでみた…これが2016年でした。

しかし、どうも年末に差し掛かるにつれてだんだん綻びが見えるようになってきてしまいました。

というのも、いざ吸収=インプットに比重をかけすぎると、どうしても自分の中で吸収した事項を整理したり改めて考えてみたりする時間が少ないと感じるようになりました。無意識の中で、自分の中で処理可能な情報量を超えて過剰摂取するようになってしまったんじゃないかと感じました。

自分の中で糧にしようと思っていたものごとが、消化不良になっているなと。

 

このままじゃいかん!

ということで今年は心機一転、吸収も処理もバランスよく行えるように、脳内メモリがショートしない程度に行うべく新規テーマを設定しました。

2017年のテーマは

 

「咀嚼」

 

名の通り、食物を噛み砕くことの意です。

そこから転じて、こう解釈しました。

見聞きした情報や刺激を、今一度頭の中でしっかり噛み砕いて、味わって、そしてしっかり自分の頭のなかにそれが自分にとってどういうものだったのかを叩き込むこと。

ここに比重を置いて今年は行動しようと、先週の今頃決めました。笑

今年はこの言葉を主軸において、渡り切っていきます。

 

 

 

さて、話は変わりまして最近自分が受けた刺激―と言ってはなんですが、この頃読んだ本や聴いてる音楽について今日は書いていきたいと思います。

本部門(漫画含む)

①レイリ

レイリ(1)(少年チャンピオン・コミックス・エクストラ)

レイリ(1)(少年チャンピオン・コミックス・エクストラ)

 

 戦国時代を描く歴史モノ。

原作は『ヒストリエ』『寄生獣』の岩明均先生。

これに関しては正直に言うと久しぶりのジャケ買い。帯に書かれた宣伝文句を見た感じ面白そうだったのと岩明先生の名前が見えたらハズレはないだろう。。。とのことで買ったら完璧に趣味嗜好にマッチしちゃってたパターン。

作画は別の人だけどコマ割りとかキャラの表情、そして作品全体が醸し出す死臭の混じった雰囲気とかは岩明作品に似せるように意識しているように感じます。

そして主人公の闇が深い。凄腕の剣術スキルを持ちながら家族の後を追うために戦場にて果てる願望のある女主人公レイリが、戦国の世をどう渡り歩いていくか、これから見ものです。

 

②コミュニティデザインの時代 - 自分たちで「まち」をつくる

コミュニティデザインの時代 - 自分たちで「まち」をつくる (中公新書)

コミュニティデザインの時代 - 自分たちで「まち」をつくる (中公新書)

 

 人々の孤立化に待ったをかける活動―コミュニティデザインとはなにか、

現代におけるその必要性やノウハウについての概略を示した本書。

人口減少とともに失われつつある人々の縁に関して、それを取り戻すために筆者が何を実践してきたかが記録してある。

いわゆる過疎地域を日本でも最も段階の進んだ「先進地域」と捉え、そこから学びを得ていく観点は今までになく新鮮だと感じました。

 

③この国のかたち

この国のかたち〈1〉 (文春文庫)

この国のかたち〈1〉 (文春文庫)

 

 ご存じ司馬遼太郎氏によるエッセイ集。

氏による考察は戦時下における強烈な体験に多大な影響を受けているのを見て取れるが、それを一種のバイアスとみなしてもなお、その分析と着眼点は非常に興味深い視点を与えてくれます。

まだ読んでいる途中なのですが、宋学とその発展形ともいうべき朱子学が江戸期においてどういった層に、どのような形で幕政下に広がっていったかについての考察は個人的に面白いと感じました。ここで得たものをスタートに自分から調べてみたいと促してくれる、良書です。

 

音楽部門

BOMI 「A_B」


BOMI「A_B」MV

きっかけは忘れてしまったけど初見のPVで「ヤバいの来た!!」と思ってしまった。

サウンドが中毒的。自分の中でエレクトロっぽさ強めなのがヒットするのも珍しい。

4~5年前にメジャーデビューしてたらしいけど、今の路線に変わったのは最近からとのこと。今後も注目。

 

②Rei “COCOA


Rei "COCOA" (Official Music Video)

3rdアルバムからの一曲。

まずド素人目に見ても明らかにギター巧い

同年代とは思えないくらい眩しいぜReiちゃんよ。。。

独特のグルーヴ感も、非常に本場のブルーズのそれっぽくて非常に良いです。

でも単なる回顧主義に終わってなくて日本語英語ごちゃまぜミックスで至極POPなのがなお一層素晴らしいです。みんなも応援しておくれよ。

 

Oasis-Wonderwall


Oasis - Wonderwall

いわずと知れた名曲。イギリスでは国民歌といっても過言でないかも。

映画「Oasis:supersonic」を見たんだけどこの曲のシーンがなぜか印象的だったのでこの頃はヘビロテ枠。

 

a flood of circle-New Tribe


a flood of circle - New Tribe

最新アルバムのリードトラック。

最近のa flood of circleは良くも悪くも安定した雰囲気を纏っていたので一昔前のようにヒリヒリとした雰囲気の曲が出ないのをちょっぴり残念に感じていたんだけど。。。

先ほど開封した新譜を全編聴いて思った。

「こいつら、攻めてやがる…!!」

あの雰囲気とバランスをとるためのこの曲だと思うと、これはこれでアリだわ。むしろ好き。

まだまだ応援してんぜ。

何も予定がなかったこの三連休を振り返る

こんばんは。

メリークリスマス。

 

みなさま、今日という日をいかがお過ごしでしょうか‪。

おれは何も予定がなかったので、特にそういうことを意識しないままただの三連休として過ごしてしまいました。

とは言ってもやはり街を歩いたりすれば、時期柄幸せそうなカップルやファミリーが目につきます。

 一人きりは、やはり寂しいものです。

 

ということで今回は来年のクリスマスの自分に「ああ、去年の今頃はこんな寂しい時間を過ごしていたんだなあ…」と思わせてやりたいがために、反省を込め、この三連休を赤裸々にここで綴りたいと思います。

 

12/23

午前

・一週間分の洗濯

天皇陛下に誕生日祝いの言葉をTwitterでつぶやく

・地下室timesのさやpさんからリプをもらう、ちょっとうれしい

午後

・岡山の映画館でスターウォーズのローグワンを観る、劇中で三回泣いた。

 白兵戦のシーンが今までのシリーズのなかで一番「戦争」だった。

個人的にはラストの方なんか村枝賢一先生のREDを思い出してしまった。

多分わからないだろうけど。。。

・市内の外国人が集まるバーで一人飲み突撃。ヴィクトリアラガーがうまい。

寂しさを紛らわすべく英語講師のイケメンオージーとアメリカンと終電までおしゃべり。

・最寄り駅まで帰ってから会社の同期ともう一飲み。

「友達ができねぇよぉ〜」って喋ってた気がする。ほとんど覚えてない。

 

12/24

午前

youtubeで映画の「正直なトレイラー」シリーズを見て一人で爆笑

スターウォーズEP1-3のディスり具合が笑える。

・夜は釣りに行こうと突然思い立つ。毎年恒例の釣りスマスである。ネットでポイント調査。

午後

会社の同期を一人道連れにしまなみ海道某所へ。

メバルカサゴを狙うつもりだったが若潮ゆえか潮が全く流れず久しぶりに惨敗。

同期にも釣らせてあげたかったが、申し訳なかった。

もう少しこの辺りは調査を行わねばいけないようだ。

それにしてもこんな日に男二人で何やってるんでしょうねえ。。。。

 

12/25

午前

・遅めの起床からの前々から行ってみたかった倉敷市立自然史博物館へ。

たくさんの標本に囲まれて、幸せな時間。化石を掘りたいという衝動に駆られたので、年明けにはチャレンジしてみたい。

・行きつけの古本屋で物色。「ぎょぶる」の最新号が出ていたので購入。

マイナー雑誌も取り扱いのある、良い本屋なのです。

午後

・スーパーで買い物。なぜか年末のスーパーの喧騒というのが大好きで、特に理由もないのに店内を徘徊してしまう。クリスマスから正月にかけてのお祭りな雰囲気が、そう感じさせるのでしょう。

 ・帰宅。読書。

 

 

 

なんとなく感じちゃうのですが

…なんだか来年も同じような過ごし方をしていそうですね。

 でも思ったより人と関わっている時間が多くて我ながら以外だと感じました。

まあ魚や昆虫標本に逃げている時もありましたが。。。

来年は寂しさを感じさせないような時間を過ごしてみせるので、みてろよ来年の自分よ。

 

ちなみに29日から3日にかけて中国は成都へと行ってきます。

今回も特に目的はありません。

向こうの年越しと初詣がどんな様子か、みてこようと思います。

 

おそらく今年最後となるこの記事、 なんともまとまりのないブログでした。

残念ながら来年もこんな感じになりそうです。

それなりのペースで書いていこうと思うので、引き続きご贔屓を。