諸法無我

旅行記や、日々思うことについて

我々のうちに潜む思想ー自己責任という言葉について感じていること②

前回は以下をご参照ください。

karinto-monster.hatenablog.com

②「自己責任論」の語られる社会がどのような病理を抱えることになるのか

前回から少し間が開いてしまいましたが、パート2を書いていこうと思います。

前回に引き続き日本人に浸透する「自己責任」意識に対して今回も自分の思うところを書いていこうと思います。

パート1ではISISによる日本人誘拐・殺人事件に寄せて、いわゆる「自己責任論」の勃興は共同体の構成員のなかでの弱者に対する共感が欠如した状態が引き起こす作用であり、あの事件に対しては自己責任のなかで語られる範疇を超えているのではと述べました。

それが私の感じた違和感であり、国家による国民の保護義務を前提とした考え方が広く根付いていればあの事件に関して自己責任論争も起こらなかった、のかもしれません。

 

ではあの時日本国民の間で湧いた「自己責任論」を引き起こしたものは何だったのでしょうか。

実は前回にすでにほとんど答えと言ってもいいワードを示していました。

―私の感じた違和感とは、「自己責任」論の裏にある弱者に対する共感性の欠如。

この言葉に尽きると、私は思います。

 

強烈な自己責任意識の源とは

非常時でない時にこそ日本人の深層心理に眠る強烈な「自己責任」意識の根源と向かい合い、考察することが非常に重要だと思います。

今回のポイントは

「自己責任論」の語られる社会がどのような病理を抱えることになるのか

としています。

 

弱者に対する共感性の欠けた社会が抱える問題とは何でしょうか。

前回記事でも触れたように、恥ずべき行いを犯した共同体の構成員に対する制裁システムー曖昧な自己責任の名のもとに村八分が維持され続けることでしょうか。

いや、思想の具現化の社会構造でなく、それよりももっと根源的な部分にこそ、我々の思想の中にこそ病は深く根を張っているのではないか?

 

そう思わせる事件が、2016年の夏に起きていました。

相模原の障害者施設で起きた元施設職員による大量殺人事件、まさに我々に思想に潜む病が犯したものだと考えています。

相模原障害者施設殺傷事件 - Wikipedia

 

この事件も当時は相当センセーショナルに報道されたこともあり、覚えのある方がほとんどかと思います。

事件発生後まもなくは笑みを浮かべながら護送される実行犯の姿や犯行前に政府関係者に直に宛てた手紙の内容に触れられたりと、その人物像に対する異常性が強調されていました。

www.huffingtonpost.jp

特にこの中で注視したいのが、

―日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。

といった文面に見られるように、実行犯がまるで正義を行使するかのような意志をもって犯行を起こしたことが伺えることです。

正義は常に何かしらのイデオロギーに則り行使されます。

(ISISが起こした数々の事件=聖戦もある意味信仰・政治的自由を獲得するための「正義」に則っていたはずです。本音と建前の問題はあると思いますが。)

 

「正義」の行使者にとって、その思想が特定の支持層に利益をもたらすという確信がなければその実践の前提条件を満たしません。

それでは相模原事件の実行犯の思想の支持者となったのはいったい誰なのでしょうか。

それこそほかでもない、我々のうちに眠る「優性思想」そのものです。

そして「自己責任論」も同様にここを源に発する病の一つの症状なのではと、私は思っています。

 

無意識のうちに潜む「優性思想」

生物学に起源を発し生命に優劣の価値を付与するという考え方は、これまでも歴史の中で人種政策や今もなお世界中で起きている紛争というかたちで顕現しています。

私たちも例外ではありません。思想の奥深くに「優性思想」が脈々と受け継がれ、そして先に触れた相模原の事件もそれによって引き起こされたものなのでは考えています。

無意識に「優性思想」が潜んでいると書きました。

確かに日本国内の日々の生活の中で私たちが極端に、露骨にある特定の人々に対してヘイト感情のもとに行動を起こすという場面はほとんどないのではないかと思います。

しかしそれは本来目を向けて考えなければならない問題に対して蓋をして背を向けているだけであり、無関心の形をとったその行動こそが内なる「優性思想」の現れではないでしょうか。

 

無関心の対象となりやすいのはいわゆる社会的弱者ー貧困にあえぐ人々や障害を持った人々、LGBT性的少数者)といったように公の場で"タブー"として扱われやすい特徴を持った人々が対象になりやすい状態にあります。

特にここ最近の世の中はそういった社会的弱者にもあらゆる活動の幅を開いていけるようあらゆる取り組みを促進しており、私もそれに関しては当然社会参加の門戸はより広く開かれるべきであると思うし、それ単体では当事者ときちんと向き合うための素晴らしい機会だと思っています。

 

しかしそこにどんな前提を持っているかについては、決して誤ってはいけないポイントがあります。それは、社会参加を行う機会を設けることで弱者に「価値を持たせる」という意識を据えていないか、ということです。

言い換えてしまえば価値を持たない人々に価値を与えるという前提に立って社会参加の門戸を広げるのであれば、それは問題の根本を見誤っているのではないか、ということです。

 

言うまでもなく社会的弱者の特性にも先天的なものもあれば後天的なものもあります。そしてそれは当人の制御下に置けない周囲の環境に起因するものも数多くあります。それによっては社会の中で十分に活躍することも困難な状況にある人々も少なからず存在します。

 

そこで社会に対して価値があることが社会における存在の前提条件という認識を社会の大多数が共有していれば、そこから漏れ出してしまう人々には価値がないとでもいうのでしょうか。社会の要請を叶える能力を満たさない、あるいは負担とみなされるだけで存在そのものを否定することは優性思想に基づく形を変えた殺人行為そのものではないでしょうか。

常に私たちはその一番大事な前提を間違えることだけは決してしてはいけない、と思うのです。

 

これはよく語られることですが無関心が差別を引き起こすとは全くその通りだと思っています。人々が日常の中で問題について語る機会を持たずにいるから、一向に当事者たちへの接し方を学ぶことができないでいる。きっと、今までずっとそんな状態が繰り返されているのです。

相模原の事件も、語る機会をずっと回避してきた私たちの怠慢が起こした事件であったと思っています。当事者の思いを共感することを避け続けてきて、そこに実行犯が現れた。

そういった意味ではいつの日か何らかの形で起こることが予見されていた、そしてその回避に失敗したのです。

事件直後のネット上の反応も賛否両論であれば、実行犯の思想に対して決定的なカウンターを持たず残念ながらある一種の共感を持って受け入れられた部分もあることが、この事件の最大の恐ろしさだと思っています。

 

最後に

相模原殺傷事件にしてもISISの事件にしても、それに対する人々の反応は共通する部分がかなり多かったのではと思っています。

弱い立場にある人々に対してその現状に共感を持たないこと(関わりを持とうとしない、とも言い換えられる)が自己の責任を超えて苦境に立たされる人々を切り捨てる方向に我々の意識が誘導されやすいこと。

社会に負担を強いると判断されれば「価値がない」人間とされ社会的に特定の人物を抹殺する、そんな考え方も少なからず私たちの思想の奥底に眠っていること。

そして私たち思想の奥底の優性思想の芽を今もなお摘み取れずにいること。

 

「自己責任」という言葉を用いるにあたって、本当は「自己責任」で語られるべきでない事項にまで触れてしまうような事態がここ最近は散見されます。

本当にそれは当人の責任によって引き起こされた事態なのか、そもそも責任という切り分けの難しい事項で個人を責めることが果たして有効なのか、この言葉について思うことはこれまで書いてきた以上にもたくさんあります。

だからこそ安易に使うべきではない、という思いが個人的にはあります。

 

そして最後に触れた優性思想の件、意図せず殺人者と信条を共有する危険性がある恐ろしいものです。しかし私たちの社会がそれに打ち克つためには残念ながらまだまだ長い時間がかかりそうです。

すなわち形は変われど同じ文脈で語られる事件は今後も起こりうるはずです。

相模原やISISの二の舞を踏まず、思想的カウンターを平時より会話の機会を設け共有認識として作り上げておくことが大事だと私は思います。