諸法無我

旅行記や、日々思うことについて

グルメサイトとかについて考えてたら

こんばんは。

 

突然ですが、みなさん食べログとrettyとぐるなびとか、いわゆるグルメサイトと呼ばれるサービス使ってますか???

アプリさえ入れておけば旅行先でも、ちょっとした出先でもスマホでちょちょいと調べて近所のおいしいレストランやカフェが見つかる、非常に便利なサービスです。

 

例えば広島でお好み焼きのお店を選ぶにしても同じような店が並んでどれを選べばいいのかわからない、なんてことありますよね。

このお店よりも☆が多いからあっちのお店にしよ~、なんて最近ではよくあることじゃないですか?

おれの周りでも使ってる人たくさんいます。

今やだれもが「正解」のお店を求めて情報を活用している、そんな風に見えます。

 

 

でも正直、そういった世間の様相に違和感を感じえない。

 

いつからか人々は、ハズレを引くことを恐れすぎて、名も顔も知らない他人のレビュー

に自らの価値観をゆだね、結果として皆が皆普遍的な方向へ向かおうとしている。

そういった状況をまさに表しているのが、冒頭に触れたグルメサイトの発達したような世の中であるように感じます。

 

 

例えば映画を見に行くにしても同じです。

映画.comやyahoo映画、Filmmarksにetc...気になった映画のタイトルをgoogleの検索窓に打ち込むだけでその映画の展開やストーリーをまとめたネタバレ内容から演者の評価に至るまで、あらゆる情報を得ることができる。

 

あなたはシン・ゴジラを観たとする。

劇場を出た後にすぐさまスマホに打ち込む「シン・ゴジラ 評価」、やがて見つけた一つのレビューはあなたが映画に対して感じた印象をまるで代弁するかのようにまとめてあるとする。

「自分と同じような感想を持っている人がネットにも書かれているなんて!!」

あなたはさぞ興奮するだろう。

同じ映画を見た人々と感情を共有したいあなたはもっとレビューを読みたいと思い、スマホの画面をタップする。

 

そして次に見たレビューがシン・ゴジラの内容をこきおろすようなものであったとき、そこには案の定、レビューに対する批判の数々が書き込まれていることでしょう。

 

そのレビューを見た瞬間、あなたの頭の中では何を感じていたかもかかわらず―全面的ではなくとも、ネガティブなレビューに対して部分的に肯定できる部分があったとしても―「こんな意見を言ったらみんなから攻撃を受けてしまうんだ」という意識の刷り込みが行われてしまう。

 

そしてあなたの意見は攻撃を行う多数のレビュワーのそれと同化し、一抹の違和感を封じ込めながら翌日は映画の感想を得意げにレビューの内容に触れつつ語ることになるのだろう。

 

 

とまあ、こんなどこにでもありそうな話の中に触れたように、作品や料理を選んだり、あるいは評価を下すなかで「失敗したくない!!」という気持ちが人々のなかで近年は非常に強くなっているように感じる。

もちろん何かを味わう、楽しむために先人の下した評価を参考にするのは間違いではない。そういった面を考えればレビューサイトも使いようによっては非常に有意義なものとなる、とは思います。

問題なのはレビューの意見を決して絶対化することはなかれ、という点です。

 

近年ではネットを見ていると大概の意見は匿名で書かれているし、気になるワードでググればお望みの情報がまとめサイトでパパッと出てくる始末だ。

ものすごく軽いサイズで、即座に出てくるだれが書いたかもわからないようなインスタント記事に、果たして自分の感情を任せていいのか?という点には常に警戒心を怠るべきではないと思います。

 

そしてネットというものは情報の発信者の顔を見ることなく情報の入手が可能なツールゆえに、ついつい自分にとって都合がいいような情報を手に入れてしまうと人間はついついそれを帰依しようとする節がある。まるで正解は一つしかないように語る意見―一般化されたに迎合することでまるで自分が正義になれたかのように錯覚して気持ちよくなってしまう。迎合を許されないいびつで個人的な感情を最大限封じ込めることによって、安心を手軽に手に入れることができる、ネットはそんな役目を果たすのに大きな役割を果たしている、ように感じます。

 

親切心でいい情報を教えてあげようといった動きのもと作られた仕組みが、結果としてハズレを手にしたりするような人々や、多数派の意見に迎合できない人々を攻撃して、人びとに安心を手に入れたように錯覚させるようなはたらきを助長しているように、おれには見えるんです。

 

 なんにしても失敗を選択することに対して世の中のハードルは上がりすぎている。

 

なんだかそういう違和感を感じてか、最近はレビューサイトとかそういうものに知らず知らずのうちに左右されてしまって、自分の感性を駆使して物事の価値を判断する力を養う能力が欠けてきてるように感じて、すごく怖くなったりする。

 

言ってしまえば現代は情報過多のためにどうしても少数派の意見が悪目立ちし、たたかれる構造にあるのかもしれない。でも決してそれを鵜吞みにして自分の中で絶対化するんじゃなくて、自身固有の価値を中心に据えつつ情報を取捨選択するスキルというものは、結果として自分の身を守るためにすごく重要になってくるんだと思いました。