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諸法無我

旅行記や、日々思うことについて

表現をする力が欲しい

【若干殴り書き気味注意】

 もう少しもしないうちに23歳になるが、ここにきて何か自分自身を強く表現をする力が欲しい、と思うことが多くなった。

例えば、楽器の一つでも弾ければもっと面白いことになっていたんじゃないかなとか。

決して充実するだろうとかそういう確信はないけど、自信をもって高らかに声を上げる手段が欲しい。今回はそういうお話だ。

 

そもそも何でこんなことを思うようになったかと言うと、音楽であれ絵画であれ文章であれ、なにか具体的な手段をもって自分自身の秘めるものを表現する手段が乏しいと感じるようになったからだ。

特に言うところの"シャカイジン"になってからは、そう思う機会は格段に増えたような気がする。もうすぐ半年に差し掛かろうとする社会人生活のという矮小な観測範囲から導き出したものだけど、おそらく想像以上に世の中は個性を必要としない

大きな企業や組織で働く人ほど、歯車としての役割を強く求められるゆえか、個性は邪魔なものとして排除されやすいのかもしれない。

 

社会人になるまではあれほどもてはやされてきた「個性」「キャラクター」も、今の生活ではむげなものとして取り扱われるのが世の中なのだなあ、というのがこの数か月間で得た教訓だ。

 

最近では個人の価値観や生き方が多様であれば多様なほどいいとされる風潮もあり、学校教育ではそう学んだ人々も多いことだろう。

しかし現実はどうか?

実社会には個人個人の個性を受け入れるほどの広い懐があるとはまだまだ自分の中では認めがたい。こればっかりはなかなか自分の口でも言いにくいのだが、「すべて正しいい」よりも、「一つの正解がある」ことを強く支持する人がまだまだ多いのだな、と感じるのが正直なところだ。例えるなら「AはA'であるべきだ」、みたいな自己のルールに入りきらない事象や人物の存在を認められない、そんな考え方が蔓延しているような気がする。そんな中じゃ、なんだか埋もれちゃいそうな気がする。

 

教育面では多様な個性化を広めようという一方で、実社会は没個性化を要請している。まさにダブルバインドといった様相じゃないか。

 

確かに考え方を異とする人と関わり合うのはすごく痛いし、ストレスフルだ。人間だれしも異質なものを受容する際は痛いもんだ。

でもそれは裏を返せば刺激的で、自分の中に考えもしなかったインスピレーションが下りてくる可能性を生み出す至上の瞬間じゃないのかなとも個人的には思う。

極論を言えば、もっともっと個人のぶつかり合えるような社会が実現してほしいというのが本音だ。決して生きやすいとは言えないかもしれないが、もうちょっとそういった方向にシフトしてもいいんじゃないかと思う。

 

だからこそ今は思う。埋もれちゃいそうな世の中で声を上げる手段を欲したいって。形は問わない。自分自身の思いを吐き出せる手段があれば、もっといろんなものとぶつかれるチャンスをつかめるような気がする。

自分自身を捨象する力が、手段が欲しいな。

 

 

 

 

(…これは冷静になってからなんじゃこりゃと見返すタイプの文章だな…)

まあたまには衝動的に綴ってみるのも悪くないのかな。