諸法無我

旅行記や、日々思うことについて

月と孤独と縁

今日、というか昨日は大学の卒業式で、おれもまあ人並みに騒いで騒いで、今はちょうどそれが終わったところです。



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帰り道にふと空を見上げると、大きな満月がぽつんと暗闇の中に浮かんでいました。
他に輝く星のようなものは見えず、ただ大きな満月が一人ぼっち。

多くの人々との別れの場を経て、ひとり路地を歩くおれの姿は、なんだかその頭上の月のように、ただ孤独の闇の中に存している。
奇妙なことに、自分自身の姿を天体にまで重ね合わせるほどの孤独を感じていたのです。

以前ブログでも書いたようにあまり別れという事象にたいしてあまりセンセーショナルにならないはずだったのですが、今日はこんな月を見てしまったせいか、ものすごい寂寥感を感じてしまいました。

おれとお前は仲間だと、月に対してこんなに親近感を感じたのはおおよそ初めてのことでしょう。

あまりに綺麗な、そして孤独な満月。見ているうちにふと考えました。いやま待てよ、月ってなんで輝いてるのかと頭をよぎる。

皆さんご存知の通り、月が太陽の光を受けて反射したものが私たちの受ける月の光として認識しているのです。太陽の光がなければ、私たちは暗闇の中に浮かぶ月を認識することさえできないのでしょう。

ブログのタイトルにある「諸法無我」という言葉、一種の仏教用語なのですが、その意味するところは世の中のあらゆる物事や事象には本質たる「我」は存在せず、全ての物事や事象は他との関係(縁)によって初めて成立している、という思想です。おれの好きな言葉のひとつです。

そう思うと、月というのは太陽との関係があって初めて人間の視覚に認知されうる存在になる、ということですよね。これって諸法無我じゃんか!


おれの頭上に浮かぶあの寂しげな月だって、太陽の光があって初めて輝けるんなら...
表面的には今は寂しく見えるのかもしれないけど、過去現在そして未来の様々な関係性を作り上げるおれたち人間、実はひとりぼっちにみえるけどもそうじゃないかもしれない。ますます月に似て見えてくるじゃないか。
誰かが月で誰かが太陽。
時にはおれが月であんたが太陽。或いは時に逆。

寂しさゆえの妄想なのかもしれない。しかし、寂しさを感じるというのはおれもそういう縁ある命のもとに生きているんだな~、という実感の裏返しなんじゃないかな。
いまこの瞬間、おれにそっくりな満月の月明かりのもとで寂しさを感じつつ、嬉しさもまた感じている。