諸法無我

旅行記や、日々思うことについて

グルメサイトとかについて考えてたら

こんばんは。

 

突然ですが、みなさん食べログとrettyとぐるなびとか、いわゆるグルメサイトと呼ばれるサービス使ってますか???

アプリさえ入れておけば旅行先でも、ちょっとした出先でもスマホでちょちょいと調べて近所のおいしいレストランやカフェが見つかる、非常に便利なサービスです。

 

例えば広島でお好み焼きのお店を選ぶにしても同じような店が並んでどれを選べばいいのかわからない、なんてことありますよね。

このお店よりも☆が多いからあっちのお店にしよ~、なんて最近ではよくあることじゃないですか?

おれの周りでも使ってる人たくさんいます。

今やだれもが「正解」のお店を求めて情報を活用している、そんな風に見えます。

 

 

でも正直、そういった世間の様相に違和感を感じえない。

 

いつからか人々は、ハズレを引くことを恐れすぎて、名も顔も知らない他人のレビュー

に自らの価値観をゆだね、結果として皆が皆普遍的な方向へ向かおうとしている。

そういった状況をまさに表しているのが、冒頭に触れたグルメサイトの発達したような世の中であるように感じます。

 

 

例えば映画を見に行くにしても同じです。

映画.comやyahoo映画、Filmmarksにetc...気になった映画のタイトルをgoogleの検索窓に打ち込むだけでその映画の展開やストーリーをまとめたネタバレ内容から演者の評価に至るまで、あらゆる情報を得ることができる。

 

あなたはシン・ゴジラを観たとする。

劇場を出た後にすぐさまスマホに打ち込む「シン・ゴジラ 評価」、やがて見つけた一つのレビューはあなたが映画に対して感じた印象をまるで代弁するかのようにまとめてあるとする。

「自分と同じような感想を持っている人がネットにも書かれているなんて!!」

あなたはさぞ興奮するだろう。

同じ映画を見た人々と感情を共有したいあなたはもっとレビューを読みたいと思い、スマホの画面をタップする。

 

そして次に見たレビューがシン・ゴジラの内容をこきおろすようなものであったとき、そこには案の定、レビューに対する批判の数々が書き込まれていることでしょう。

 

そのレビューを見た瞬間、あなたの頭の中では何を感じていたかもかかわらず―全面的ではなくとも、ネガティブなレビューに対して部分的に肯定できる部分があったとしても―「こんな意見を言ったらみんなから攻撃を受けてしまうんだ」という意識の刷り込みが行われてしまう。

 

そしてあなたの意見は攻撃を行う多数のレビュワーのそれと同化し、一抹の違和感を封じ込めながら翌日は映画の感想を得意げにレビューの内容に触れつつ語ることになるのだろう。

 

 

とまあ、こんなどこにでもありそうな話の中に触れたように、作品や料理を選んだり、あるいは評価を下すなかで「失敗したくない!!」という気持ちが人々のなかで近年は非常に強くなっているように感じる。

もちろん何かを味わう、楽しむために先人の下した評価を参考にするのは間違いではない。そういった面を考えればレビューサイトも使いようによっては非常に有意義なものとなる、とは思います。

問題なのはレビューの意見を決して絶対化することはなかれ、という点です。

 

近年ではネットを見ていると大概の意見は匿名で書かれているし、気になるワードでググればお望みの情報がまとめサイトでパパッと出てくる始末だ。

ものすごく軽いサイズで、即座に出てくるだれが書いたかもわからないようなインスタント記事に、果たして自分の感情を任せていいのか?という点には常に警戒心を怠るべきではないと思います。

 

そしてネットというものは情報の発信者の顔を見ることなく情報の入手が可能なツールゆえに、ついつい自分にとって都合がいいような情報を手に入れてしまうと人間はついついそれを帰依しようとする節がある。まるで正解は一つしかないように語る意見―一般化されたに迎合することでまるで自分が正義になれたかのように錯覚して気持ちよくなってしまう。迎合を許されないいびつで個人的な感情を最大限封じ込めることによって、安心を手軽に手に入れることができる、ネットはそんな役目を果たすのに大きな役割を果たしている、ように感じます。

 

親切心でいい情報を教えてあげようといった動きのもと作られた仕組みが、結果としてハズレを手にしたりするような人々や、多数派の意見に迎合できない人々を攻撃して、人びとに安心を手に入れたように錯覚させるようなはたらきを助長しているように、おれには見えるんです。

 

 なんにしても失敗を選択することに対して世の中のハードルは上がりすぎている。

 

なんだかそういう違和感を感じてか、最近はレビューサイトとかそういうものに知らず知らずのうちに左右されてしまって、自分の感性を駆使して物事の価値を判断する力を養う能力が欠けてきてるように感じて、すごく怖くなったりする。

 

言ってしまえば現代は情報過多のためにどうしても少数派の意見が悪目立ちし、たたかれる構造にあるのかもしれない。でも決してそれを鵜吞みにして自分の中で絶対化するんじゃなくて、自身固有の価値を中心に据えつつ情報を取捨選択するスキルというものは、結果として自分の身を守るためにすごく重要になってくるんだと思いました。

 

キノコ狩ってきた

先日の日曜日は岡山県蒜山にキノコを狩りに行ってきた。

地元のガイドクラブが毎年開催しているというイベントで、大まかに要旨を言えばキノコをひたすら狩ったのち、プロフェッショナルの目利きフィルターでOKが出たものを持って帰れるというものだ。

 

私は前々からとりわけキノコに対して興味があったというわけではないが、もともと自然の中で何かを採って食べるというのが好きな性分である。

偶然ネットで案内を見かけた30秒後には空き定員を問い合わせる電話をしていたあたり、やはり自分の中でハンティング寄りなイベントに対しては強い意欲を呼び起こすのだなあ、と改めて自覚した。

ちなみに今回はなんとなしに勤め場の同期にも声をかけ、参加してもらう運びとなった。

突如として「キノコ狩りに行こうぜ!」って言われてもホイホイついてきちゃうあたり、非常に心配だ。

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さて、実際に当日キノコを求めてやってきたのは山のふもとの茂みの中だ。

探し方は単純。山の斜面をはいずり回り、ジメジメしたキノコの生えそうなところをひたすら探し回る、それだけだ。

それを繰り返していけばだんだん目も慣れていき、どこに生えていそうなのか目星がつくようになってくる。少なくともこういったやり方は我々初心者の段階では間違いないと感じた。

しかしキノコ狩りというものは熟練者と初心者との間で明らかに差が分かれる。おそらくプロフェッショナルにはプロフェッショナルなりに経験と知識に裏付けされたコツを持っているのだろう。

 

我々初心者は毒キノコかそうでないものかを判別する知識も経験もない。

鑑定はプロに任す以上、手あたり次第にキノコを狩るのみ。

 

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とまあ、こんな具合に木の陰にひっそりとキノコは息をしているものである。

我ながらなんとも秋を感じさせてくれるいい写真を撮ったものだと感心する。

一見色もよさそうでソテーにしたら美味そうだと思ってしまうビジュアルをしているが、このキノコは鑑定の際に弾かれました。毒キノコでした。悲しい。

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ここが我々の戦場。

茂みをかき分け、キノコを求めさ迷い歩く。

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夏の忘れ物もあり。

2時間ほど探して回り、採れたキノコは種類を問わずこれくらい。

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プロフェッショナルの方に教えていただいたのだが、食用に適さないキノコというのは明らかに変な異臭を発している場合が多いのだという。この中にも魚の腐ったようなにおいを発するものもあり、言うまでもなく鑑定でははじかれた。

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こちらは同行者の採ったアミタケの一種。文字通り、かさの裏が網状になっていることが名前の由来だ。こちらはその網状の部分こそ消化が悪く食用に適さないが、そこさえ取ってしまえば何ら食べるには問題はないという。

f:id:karinto-monster:20161018231451j:plainというわけで下処理を行います。

結構簡単に剥けていた。

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ショウゲンジダケ。今回最も多く採れた食用キノコ。

様々な調理法に向く、万能キノコ。

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ここに写っているもの、八割以上が食用に適さない。

持って帰ることができたのはショウゲンジダケと前述のアミタケ、そして写真を撮り忘れたクリフウセンダケとカノシタ、そしてムラサキアブラシメジモドキだ。最後のやつはなかなかに強烈な名前だ。一回聞いただけで名前もすんなり覚えてしまった。

写真が見たい人はググってくれ。

 

そんなわけで持ち帰ったキノコを、

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ベーコンと一緒にソテーにしていただく。

ワイルドさあふれる味が特徴だ。もちろん自然のものなのでキノコの中にマイクロ級のよくわからん森のお友達が巣を作ってたりもするが、まあそこはご愛嬌。

一緒に油で炒めて、跡形もなく滅して我々の血肉の一部として迎え入れてやろうではないか。

前の方に映っている青紫っぽいのがムラサキアブラシメジモドキだ。写真あったな。

欧州旅行⑦ Paris→Zagreb, Croatia

久しぶりの旅行記です。

 

前はどこまで行ったっけ。。。

と思い返して前回の記事を書いたのが約2か月前と気づいて、自分のサボりっぷりに半ば呆れております。

karinto-monster.hatenablog.com

パリの二日目にオルセーを訪れて、いよいよバルカン半島クロアチアに向かおう、という日の出来事について今回は書きたいと思います。

バルカンにたどり着くまでは紆余曲折あったのですが。。。

とりあえず書いていきます。

 

パリの三日目の朝は、近所の公園でブックマーケットが開かれているとのことで散歩がてら何となしに訪れてみた。

というのもこの日のうちにはパリ郊外のCDG空港からクロアチアの首都、ザグレブに向かう予定だったので十分な時間があるわけではない。少ない時間で必死に観光地を回ったりするよりも、町の人々の生活を観察して回ったりするほうが性にも合っているので、お金もかからないし。。。

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とまあその前に、溜まった洗濯物を片付けにひとまず先にコインランドリーへ。

ところが困った。当然ながら使い方やら何まで英語表示でなくフランス語表示なので洗濯しようにも洗剤の買い方さえも全く分からない。

右往左往していると、乾燥待ちのおばちゃんが様子を見かねて近づいてくれて、言葉がわからないなりに一生懸命説明してくれた。

洗剤はこうやって出すのよー時間はこうやって調整するのよー乾燥はこっちよー

ってな感じで。

言葉はわからないけれど、お互いジェスチャーでコミュニケーションを取り合い、どうにか自販機で洗剤をゲットして洗濯槽を回すところまでこぎつけた。この時点で何となく乾燥機の使い方もわかったのでおばちゃんにMercy!!Mercy!!!と告げてから洗濯の合間に例のブックマーケットを訪れることにした。

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ほぼ一般人と思われる人々が、フリーマーケット感覚で古本を売買している感じだ。

ジャンルも多様だ。雑誌から古典か?と言わんばかりの朽ちかけた物まで取り扱いがある。しかしもちろんそこは芸術の都というだけはあって、美術関連の書籍が比較的多いようには感じた。

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朝日を浴びながら隣の公園では読書に励む人々も数多くいた。

ランニングをしたり犬の散歩をしたり音楽を聴いたり過ごし方は人それぞれだ。

日曜日の朝ということもあってか、遊びに来ている親子連れがとても多かった。様々な肌の色をした子供たちが一緒に遊んだりしているのを見ると、どうしようもない世の中のいざこざなんか知らないままこの子たちは大人になってしまえばいいのに、なんて思う。

 

ちなみにこの公園にはミニ遊園地が併設されていた。

日本ではこういうところを見かけたことがないので驚いた。

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こんな感じでブックマーケットを冷かして、洗濯物の乾燥中にもうひと散歩を終えて、ぼちぼちクロアチアに経つ準備を始めた。

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メトロとRERと呼ばれるパリの郊外線を乗り継いで、昼過ぎごろに一路CDG空港へ向かう。

夕方のフライトには間に合わせないといけない。

空港へ向かうために乗る必要のあるRERのB線はパリ市内の公共交通機関の中でも治安の悪い北東エリアをメインに通るため、あまり良くない前評判を聞いていたので最大限の警戒心を持って臨んだ。

 

なるほど確かに聞いていた通り、プラットフォームからすでに様子がおかしい。

空港へ向かう旅行者ももちろん多いものの心なしか雰囲気はピリピリとしているし、軍手をした怪しい長身男がチラチラとこちらのほうを伺っている。非常に怪しい、こいつとは別の車両に乗ろう。

結果として旅行者同士が身を寄せ合って乗るような形になった。

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パリは中心街を離れるとガラッと風景が変わる。

どんな雰囲気なのは写真を見てもだいたいは伝わると思う。

ユーロをねだってくる車内パフォーマーバイオリン弾きをかわして、CDG空港に到着した。手続きはさっさと済ませたいのでチェックインカウンターへ向かい、Eチケットとパスポートを見せる。

しかしどうやら手間取っているようで、何か問題があるのか尋ねてみると、とんでもない事実が発覚した。

 

 

「あなたの取ったフライトは一か月前のものね」

 

 

・・・・はい!???

呆然とした。何も考えられなかった。

まさに痛恨のミス、今となってはなぜこんなに馬鹿馬鹿しい間違いを犯したのかはわからない。今からチケットを変えないかと聞いてみたが。しかし現在準備中のフライトにはどうやっても乗れない、ということだ。。。

チケット代自体は1万円ちょっとだったため金銭的なダメージはさほど大きくはない(欧州内のLCCは割と安い)。しかしそれよりも時間的なダメージが大きい。最短でザグレブ行きのチケットを買い直せるのは翌朝発のブリュッセル経由便のみとのことだ。

要するにほぼ丸一日を移動に持っていかれることになってしまった。ただでさえ短い旅行期間にこれは非常に痛い。さらには今晩の宿もない。どーするよおれ???

 

とまあやらかしてしまったことは悔いても仕方がないので空港近辺で適当なビジネスホテルを取り、今日泊まるはずだったザグレブの宿にもチェックインが一日遅れることを伝え、とにかくこの日はふて寝することにした

されどショックはまあまあ大きかったので、ここら辺で何をしていたのか正直あまり覚えていない笑

おそらくは、空港のベンチで呆然としていた時間が長かったのだろう。。。

 

 

~翌日~

 

昨日の悲劇を乗り越え早朝よりのフライトに備えるために盛大なふて寝をかましていたのでこの日は起きた時点で元気はメガMAX。ブリュッセルの空港を乗り継ぎ、ついにバルカン半島へ旅立つ。ブリュッセルからザグレブジェットエンジンなどなく、プロペラ機だ。

※ちなみにこの約一週間後、日本に帰国した翌日にブリュッセルの空港でテロが起きた。旅程がずれていたらと思うと恐ろしい。

 

到着はこぢんまりとしたザグレブの空港。

雪を冠する山脈を越え、ようやくたどり着いたバルカンの地。

ここからはもはや西欧の世界ではなく、東欧の世界、スラブ圏だ。

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エアポートバスで首都ザグレブの市内に向かう。ザグレブは本当に小さな町で、本当に一国の首都かとは信じられないほどの規模で、観光するにも半日あれば十分なほどだ。

ゲストハウスで荷物を降ろした後はとりあえず市内を回ってみた。

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 市内は市民の足であるトラムが24時間運行されていて、正直これくらいの規模で夜中に乗る人はいるのかと多少疑問に思うところだ。。。

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この銅像の人はイェラチッチ総督と言って、国民的英雄的な人物らしい。

ザグレブの中心街のランドマーク、イェラチッチ総督広場は市民の憩いの場でもある。

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(昼間撮影バージョン)

 

夕食はスーパーで買った適当なパンやら肉類やらいろいろをいただいた。

欧州は乳製品が安くて本当に安かる。ケフィアを普通に売ってるあたり東欧感がある

そしてクロアチアについたこの翌日は憧れの地であるプリトヴィツェ湖畔公園に行くことを心に誓い、この日は眠りについた。

 

 

長くなった。。。おやすみなっさい。

 

西域になぜ惹き付けられるのか


今日は古本屋美術展の図録を買ってきた。1991年東京国立博物館で開催された特別展のものだ。

特別展の名前は、「ドイツ・トゥルファン探検隊 西域美術展」

西域―中国西部の新疆ウイグル自治区からトルキスタンと称される中央アジア一帯のエリア、なぜか自分はこのエリアの文化や習俗、歴史に強く惹かれるのです。

西域は古くより中華文明とインド文明、そしてメソポタミアをはじめオリエントやヘレニズム文化圏をもつなぐ、交易で栄えたという絹の道ことシルクロードの要衝が連なる。

もちろん商業上の要衝ゆえに、この地は何度も戦火に苛まれてきた、そしてあらゆる民族や文明が代わりがわり自らの支配を打ち立てては滅び去り...といった歴史が繰り返されてきた場所でもある。

個人的に大好きな漫画、「シュトヘル」もモンゴルに滅ぼされる運命にある「西夏」と呼ばれる国の文字を守る…というストーリーだ。西域の歴史の一端が描かれている。


今でこそ西域に根を張るのはウイグル人をはじめとしたムスリムが大半らしい。しかしこの西域という地域からはおびただしいほどの仏教関連美術品、それもヘレニズムやインドのガンダーラの影響を受けた、文化の交差点としての性質を併せ持ったものが多数出土している。

かつて仏教の一大興盛地だったことをこの地域の出土品たちは今も語っている。

文化・文明の交差点というのは常に争いの火種になりやすい。今の世界情勢や学んできた歴史を振り返ってみるとそれは自明の理だ。滅ぶものもあれば、生き残るものもある。

自分が強く興味を惹かれるのは、滅びゆく者が遺していったものの方だと感じたのは、おそらく井上靖の「敦煌」という小説を読んだからだと感じている。

敦煌という町の石窟寺院から出土した、大量の経典などをモチーフにした歴史小説なのだけれど、今にも滅びの危機にあるにもかかわらず、その時にどういった思いをもってどんな人々がなぜそんなものを遺したのか、という思いが非常に自分の胸を突いたのを覚えている。

なにかを遺すこと、命をつなぎ子孫を残すこと以外にそんな方法を志した人々がいたことに、なんだか心が動いてしまう。上記したようにかつては仏教文化圏だった西域も今やムスリムの文化圏が多数を占める。出土品の語る西域の文化は今そこにすんでいる人々のものとは別物であることが、余計に心を打つ。現代との連続性のなさゆえの面白さだ。

あらゆる文化や民族がぶつかり合い、独自の様相を生み出し、そしてタクラマカン砂漠のなかに消え去った人々の思いの数々―悠久のロマンを感じさせる出土品の数々が、今も自分のような人間を惹き付けているのだろう。

自由研究の思い出

夏も終わり、初秋の雰囲気の漂う今日この頃です。

ふと考えてみましたが、夏休みのとき、自由研究ってありましたよね?

自由研究と聞けば対象となるテーマは自然科学系統がメインと思っていましたが、最近では

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/1601/12/news161.html

こんな形の自由研究をする小学生もいるんですね~驚き。

何しろ「自由」なテーマでの研究が課される以上その範囲は自然科学的な分野に括られる必要はないわけで、本来的に自由研究とはこうあるべきなのでしょう。

しかしながら自分の興味関心は幼少の頃より自然科学分野に向いていたので(大学こそ文系でしたが) 、常に自由研究をやるとなればそのテーマはいわゆる自然科学系統ののものでした。

おれが確か小学五年生のときに行った自由研究は「東京のデパートに使われている大理石から化石を見つける」、でした。(当時は都民でした)

信じられないかもしれませんが、デパートなんかに使われる大理石の中には、よくよく見てみると結構な頻度で化石が取り残されているのです。アンモナイトはじめ貝類とかウミユリとか、三葉虫とかバリエーション様々な化石が、博物館さながらに大理石の中に埋め込まれているのです。

この化石はどこで見つけました!こんな種類と推測されます!みたいな情報を模造紙にまとめたのが自分の今までやってきた自由研究のなかで、一番印象的。

校長先生に表彰を受けたのもあってか、なんだかいい思い出だな~。

以上、ただの回顧録。

表現をする力が欲しい

【若干殴り書き気味注意】

 もう少しもしないうちに23歳になるが、ここにきて何か自分自身を強く表現をする力が欲しい、と思うことが多くなった。

例えば、楽器の一つでも弾ければもっと面白いことになっていたんじゃないかなとか。

決して充実するだろうとかそういう確信はないけど、自信をもって高らかに声を上げる手段が欲しい。今回はそういうお話だ。

 

そもそも何でこんなことを思うようになったかと言うと、音楽であれ絵画であれ文章であれ、なにか具体的な手段をもって自分自身の秘めるものを表現する手段が乏しいと感じるようになったからだ。

特に言うところの"シャカイジン"になってからは、そう思う機会は格段に増えたような気がする。もうすぐ半年に差し掛かろうとする社会人生活のという矮小な観測範囲から導き出したものだけど、おそらく想像以上に世の中は個性を必要としない

大きな企業や組織で働く人ほど、歯車としての役割を強く求められるゆえか、個性は邪魔なものとして排除されやすいのかもしれない。

 

社会人になるまではあれほどもてはやされてきた「個性」「キャラクター」も、今の生活ではむげなものとして取り扱われるのが世の中なのだなあ、というのがこの数か月間で得た教訓だ。

 

最近では個人の価値観や生き方が多様であれば多様なほどいいとされる風潮もあり、学校教育ではそう学んだ人々も多いことだろう。

しかし現実はどうか?

実社会には個人個人の個性を受け入れるほどの広い懐があるとはまだまだ自分の中では認めがたい。こればっかりはなかなか自分の口でも言いにくいのだが、「すべて正しいい」よりも、「一つの正解がある」ことを強く支持する人がまだまだ多いのだな、と感じるのが正直なところだ。例えるなら「AはA'であるべきだ」、みたいな自己のルールに入りきらない事象や人物の存在を認められない、そんな考え方が蔓延しているような気がする。そんな中じゃ、なんだか埋もれちゃいそうな気がする。

 

教育面では多様な個性化を広めようという一方で、実社会は没個性化を要請している。まさにダブルバインドといった様相じゃないか。

 

確かに考え方を異とする人と関わり合うのはすごく痛いし、ストレスフルだ。人間だれしも異質なものを受容する際は痛いもんだ。

でもそれは裏を返せば刺激的で、自分の中に考えもしなかったインスピレーションが下りてくる可能性を生み出す至上の瞬間じゃないのかなとも個人的には思う。

極論を言えば、もっともっと個人のぶつかり合えるような社会が実現してほしいというのが本音だ。決して生きやすいとは言えないかもしれないが、もうちょっとそういった方向にシフトしてもいいんじゃないかと思う。

 

だからこそ今は思う。埋もれちゃいそうな世の中で声を上げる手段を欲したいって。形は問わない。自分自身の思いを吐き出せる手段があれば、もっといろんなものとぶつかれるチャンスをつかめるような気がする。

自分自身を捨象する力が、手段が欲しいな。

 

 

 

 

(…これは冷静になってからなんじゃこりゃと見返すタイプの文章だな…)

まあたまには衝動的に綴ってみるのも悪くないのかな。

欧州旅行⑥ Paris part2

欧州旅行記もようやく半分くらいでしょうか、

パリ編パート2でございます。

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オルセーを訪れた後はパリのを流れる大河、セーヌ川の川岸を歩きながらエッフェル塔方面を目指す。

ちなみにパリではセーヌ川の南側を「左岸」といい、対する北側を「右岸」という。

総じて左岸の方が治安は良さげなイメージだ。

パリはとにかく地区によって治安の差が顕著なので、旅行に行く際は本当に気を付けたほうがいいと思う。特にパリの中でも18区をはじめとした北部は本当にパリなのか?と思わせられるような印象もある。あくまでイメージの話であり、決めつけてしまうことがいいことではないのだが、旅行中は用心に越したことはない。

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やはりパリでもとりわけ有名な観光地だけあってか人が多い。アジア人の姿も良く見受けられる。

しかしそれよりも目立つのがアフリカ系と思しき黒人たちの物売りの姿だ。自撮り棒やら怪しげなパリグッズを観光客に売りつけている。それも非常に数が多い。

彼らのバックグラウンドはアフリカの旧フランスの植民地からの移民か、それとも北アフリカの紛争地帯から命からがら言葉の通じるフランスに逃げてきて、こういった職に就いているのか…

地下鉄のホームの難民やスリが多く見られる事からも、我々日本人が思う以上にフランスという国は昨今のテロの頻発が象徴しているように混沌の最中にあるのかもしれない。そんなことを考えてばっかでエッフェル塔自体に対して、これといった印象がないのが正直な印象だ。

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夕食はスーパーで買った謎のよくわからんやつ。

ムール貝とサモサは良いとして、謎サラダはキヌアがメインなのだろうか。

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翌朝はやはりここは外せないということでルーヴル美術館を訪れた。

とにかくコレクションの量が膨大で、とても一日ではすべてを見切らない。特定の分野に絞って鑑賞しなければ、見たいものも見れずじまい、ということになりかねない。

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オルセーよりも古い時代の作品が多めなので、宗教画が必然的に多くなってくる。

 

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ナポレオンがイタリアからぶん捕ってきた絵らしい。

他にもルーヴル所蔵のオリエントコレクションやエジプトコレクションは非常に充実していて、ある意味近代帝国主義の遺産だ。

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モナリザの前は、ものすごい人だかりだ。

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勝利の女神であるサモトラケのニケ。実はあのNIKEマークと起源を共にする。

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やはりエジプトコレクションは至極の充実っぷりである。

遊戯王世代的にはエジプト感あふれるコーナーにはロマンを感じずにはいられない。

当時の人々の習俗や死生観を、遺されたものから知ることが出来る。

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猫のミイラまであるので驚きだ。

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ルーヴル、内部装飾も細かいところまで施されていて、つくづくフランスと言う国は美意識が高いのだなと感じさせられる。パリの街中は犬のウンコであふれてるけどな!

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この帳簿つけてる絵好きです。

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3年D組近代合理主義先生!!!

として知られるデカルトさんともお会いしました。cogit ergo sum~

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オランダ勢もいます。

フェルメールの「天文学者」なんか来日したときは大騒ぎだったけどこちらでは案外皆様素通り。あー、そういうものなのね…

 

特別展は星と神話をテーマにしたもの。

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特別ゲストはなんとヴェーダ―卿。

なぜかEP3のメイキングがずっと流れてた。ヘイデン・クリステンセンが若くて泣いた。

 

ルーヴルはざっとこんな感じでした。

この日はもうちょっと続きがあるので、ひとまずここで切りたいと思います。